あさや靴店と麻田茂男のモデルは「モトヤ靴店」で店主は元田蓮

朝ドラ「べっぴんさん」の第2話から登場した「あさや靴店」の店主・麻田茂男。
神戸の港町商店街でお店を構える靴職人さんです。

そんな彼も実はモデルがいらっしゃるのをご存知ですか?
今回は坂野惇子さんの恩人でもある元田さんをご紹介したいと思います。

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神戸で有名だったモトヤ靴店

阪急三宮駅を降りて直ぐにある三宮センター街の一角に元田蓮が営む「モトヤ靴店」があります。神戸の靴は全国的にも知名度があり、いわゆる「神戸靴」なんて言われていますが、元田蓮も地元では有名な手縫い職人でその技術は確かなものでした。

 

元田蓮が作った特別なハイヒール

佐々木家とは戦前から付き合いがあり、惇子も嫁入り道具として元田にハイヒールを作ってもらったのです。そして戦後、夫が戦地から帰ってきて仕事復帰したものの、生活は苦しく、一度も履いていないそのハイヒールを売って生活費の足しにしようと考えていたのですが、元田に断れててしまう。

「結婚祝いでお嬢さんのために丹精込めて作ったもの。他の人に売るわけにはいきません。」

自分ために作ってくれた靴を売ろうとしたことを恥ずかしく思えてしまい、惇子は話題を変えようと子供の写真を見せた時に、元田は刺繍が施された手作りの写真入れと手提げ袋をに目が止まる。

既製品ではなく惇子が作ったことを知ると、「これを売ったらどうですか、ショーケースはお貸しします。」と言われ驚く彼女。

元田は、お世話になった佐々木家に恩返しがしたいのだという。当時、資産家は出入りの商人を見下すのが一般的だったようですが、惇子の父親は人を外見や職業で判断せず、平等に接していました。そんな父の人柄に感謝しているのだという。

そしてこの元田の提案がきっかけで子供服を販売することになったのです。

 

ベビーショップモトヤ開店

1948年12月4日、惇子は主婦仲間とともにモトヤ靴店内のショーケースを借りてベビーショップモトヤをオープン。初日は4万円売り上げたものの、利益はたったの毛糸二個分。自分たちの技術料を入れてなかったのである。そんな失敗もありましたが品質の良さが評判を呼び、客足も上々。モトヤ靴店に女性客がたくさん来るようになったのです。

 

応接室を占拠される

上質な子供服があることでモトヤ靴店に来る客層も上品な客が来るようになり、元田は接客のために応接室を用意したのですが、気がつけば惇子達が製品づくりや収支計算などで利用するようになってしまったとか。惇子達に独立を提案したのですが、聞き入れてもらえず困惑する元田。

「元田さんのお店が良い」

彼女らは元田の気持ちなど全く気にしていない様子、そんな時、商店街で空き店舗の話が舞い込んだのです。

 

独立店舗そして株式会社ファミリア誕生

モトヤ靴店の隣の店舗が空き店舗になるということで1949年12月に3坪という小さな店ですが独立店舗を構えることになったのです。更にベビーショップの勢いは留まることを知らず、1年後の1950年に佐々木営業部のサービスステーションだった2階建ての店舗を借りて、「ベビーショップファミリア」をオープン。ちなみにこの時、坂野惇子さんは32歳でした。

 

初代社長に元田蓮が就任

普通なら惇子さんが社長になるのが自然ですが、ベビーショップの経営をずっと見てきた元田蓮が社長に就任。そう言えば惇子さんは学生時代、2番が好きと言っていたので、トップになることを遠慮していたのかもしれません。女性の自分が社長になるなんてありえない。そんな事を考えていたのでしょうか。

なので惇子さんは専務取締役に、常務は同じ商店街の婦人服を販売する川村商店の店主・川村睦夫が就任。売り場店舗に子供服の商品だけで埋めるのは難しいので川村商店の婦人服を置いてもらうことになったという経緯からです。

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ファミリアを影で支えた元田

1952年、坂野惇子の夫・道夫が取締役に就任した翌年の5月、元田は社長を辞任。その後は取締役、そして監査役とファミリアを影で支え続けながら、1962年に他界。

神戸の腕利きの靴職人さんが「お世話になったから恩返ししたい」という思いから始まったサポートが、あれよあれよという間にファミリアの社長に就任し晩年まで尽くした彼の功績はファミリアの礎を築いた貴重な存在でもあります。その根底にあるものは紛れもなく、佐々木家の父親から受けた恩があったから。

佐々木営業部を再建した尾上清もそうです。父・正蔵とともに佐々木家に尽くすその精神は惇子の父・佐々木八十八を信頼していたのです。