「日本のいちばん長い日」原作小説の感想「国体護持という精神」

8月8日に公開となる映画「日本のいちばん長い日」。
実は1967年8月、終戦の日を前に映画化されていたんです。

三船敏郎、加山雄三、笠智衆など名だたる俳優陣で構成され、
見た方によれば阿南大臣の切腹シーンは圧巻だったそうです。

今回は半藤一利氏の小説を読んでみましたので、
感想とともに中身をご紹介したいと思います。

映画の感想はこちらで書いています

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もくじ (文字クリックでジャンプ出来ます)

あらすじ

1945年、
度重なる空襲、広島・長崎への原爆投下、ソビエトの参戦など、
苦境に立たされた日本が取るべき道は降伏しかなかった。

しかし本土決戦の前に降伏などありえないという軍部の猛反発もあり、
ポツダム宣言受託、及び天皇の玉音放送までの道のりは一筋縄では行かなかった。

血気盛んに活躍をみせる青年将校たちは
なんとしても国体を護り抜くという強い信念のもと、
上官をも殺害するという暴挙や、ニセの師団命令を出して軍を動かし、
宮中を占拠し、玉音放送の阻止に躍起になっていた。

青年たちが立ち上がる前、陸軍大臣を務めていた阿南惟幾(あなみこれちか)は
徹底抗戦を主張していましたが、天皇のご聖断(降伏)は変わらない、
これ以上異を唱えては不忠行為であり、従わなければいけないと心変わりをする

大臣への直談判もこれまでか、という思いを残しつつ、
そして何かを決意した畑中少佐を筆頭に青年将校たちが動き出すのでした。

 

感想

恥ずかしながら歴史に関しては本当に疎く、
ポツダム宣言も何となく覚えていたくらいの出来事でしたが
本書を読み終わり、改めて歴史的背景と終戦までの短いようで長い道のりだった
14~15日の出来事を詳細に知ることが出来ました。

本書の良い所はそうした史実に基いて構成されていること。
著者は資料から、そして関係者から詳しく話を伺い
時系列に読みやすく丁寧に記しています。

さて、私みたいに浅知恵の人間が歴史を語ってしまうと
つまらなくなってしまうので、書籍で印象に残っている場面をご紹介したいと思います。

御前会議

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(出典:http://blogs.yahoo.co.jp/naojyi/14098055.html)
写真は8月9日深夜の会議

天皇自ら出席した御前会議は、御文庫付属の地下防空壕で行われていました。
8月9日(正式には10日)と14日の2回です。

換気扇はあるものの蒸し暑い場所で日本の将来を決める会議が
開かれたわけですが、このほど宮内庁が50年ぶりにこの防空壕を動画公開しました↓

YouTube:昭和天皇、終戦決断の防空壕公開=皇居内の御文庫付属室

厚さ30cmの鉄扉は物々しさ感じますが、ミサイルが打ち込まれても
敵襲があっても、ある程度は持ちこたえてくれそうな作りになっていますが
今ではその重厚な扉もサビ、通路や部屋は朽ち果て、立ち入りが危険な状態となっています。

そんな場所で開かれた御前会議、
2時間余の話し合いも結論が出ず、結局のところ天皇のご意向に沿う流れを取ったのが
時の総理・鈴木貫太郎氏でした。

異例ともいうべき事態に周りも困惑したそうですが、
このまま結論が出ないままポツダム宣言の返答を先延ばしにしては
さらなる被害拡大は必至、しかし終戦を推し進めれば
軍部からの強い反発は避けられず、国内の混乱を招きかねない。

こういった非常事態の戦局を動かせるのは天皇しかいない、
また大元帥という軍の最高責任者でもある天皇のご聖断ともなれば
軍部も従わざる得ないという考えも総理にあったのかもしれない。

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阿南陸軍大臣の最期

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(出典:https://ja.wikipedia.org/)

ポツダム宣言受託を反対し徹底抗戦を主張していた阿南陸軍大臣。
その彼の元へ六名の若き青年将校達がクーデター計画の報告、
大臣に支持を求めましたが、早まった行動を取らないようにと、これを窘めた。

阿南大臣にとって青年将校達のこうした決起する行動は痛いほどよく分かる。
彼もまた降伏することによって国体護持が危ぶまれるのではないかと、
最後まで心配していた人物なのです。

しかし天皇の聖断に逆らうことは出来ず、
ポツダム宣言受託の詔書にサインをした・・・わけですが
この時既に自決を決めていたかもしれません。

総理大臣室を訪れた阿南大臣は

「陸軍の意思を代表して、私はこれまでずいぶん色々と強硬な意見を申し上げましたが、総理にご迷惑をお掛けしたことと思い、ここに謹んでお詫び申し上げます。私の真意は一つ、ただ国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点は何卒ご了解くださいますよう。」(引用:「日本のいちばん長い日」)

という感謝の意を述べるとともに南方第一線からの届け物といって新聞紙に包まれた葉巻を総理に差し出したそうです。
そんな大切な葉巻を総理は吸うことが出来なかったのでしょう。
大切に保管していた葉巻は阿南大臣の命日に供養として焼いたそうです。

また、首相は改めて阿南大臣に感謝の意をこう述べています。

「阿南大臣は忠実に政府の策に従われた。陸軍大臣が辞表を提出されたならば、我が内閣は即座に瓦解したであろう。阿南大臣が辞職されなかったので、我々はその主目標、つまり戦争終結の目的を達成することが出来た。わたしは、そのことを陸送に深く感謝しなければならない。阿南大将はまことに誠実な人で、世にも珍しい軍人だった。実に立派な大臣だった。わたしは、その死が痛恨に堪えない。」(引用:「日本のいちばん長い日」)

確かに総理の言う通りで、阿南大臣が辞表を出し内閣を瓦解することは容易です。
しかし彼は部下に言ったように「私が辞めたところで問題は変わらんよ。」と
冷静に返していましたが、これまでの彼の言動から察するに、天皇への高い忠誠心や
実直で素直な人物であると考えられます。

そして最後には責任を取る形で自決したわけですが
これは部下がクーデターを起こしたからではなく降伏という選択を取らざる得なかった
軍の責任者としての最後の役目とかんがえるべきなのだろうか。

どちらにしても彼はクーデターを知らされたのは自決を決めた後なんです。
部下が見守る中、大いに酒を酌み交わしたあと、腹を切り頸動脈を切り
意識を失いながらも正座していたということです。

繰り返しになりますが彼は最後まで国体護持を望んでいたのです。

 

宮城事件

いわゆる日本の降伏を阻止せんと決起した青年将校のクーデター事件。
森赳(もりたけし)師団長が犠牲となったわけですが
その中心人物となる畑中少佐と井田中佐、そして竹下中佐は東大教授の平泉澄博士の直門で国体観を学んでいたといいます。
彼らが学んでいたという国体観とは

国民はひとしく報恩感謝の精神に生き、天皇を現人神として一君万民の結合ととげる、これが日本の国体の精神である。(引用:「日本のいちばん長い日」)

つまり国民を助けるのではなく国体を護るためなら最後の一人となっても戦いぬくという精神で
ポツダム宣言などという無条件の降伏はありえないという考えになる。

阿南大臣に計画を報告し支持を得ようとし断られたことで
自分たちだけでもその精神の元、決起し、何としても降伏を阻止せんと画策したのです。

しかしこの宮城事件は宮中占拠したものの失敗に終わり、
畑中少佐は苦し紛れに玉音放送の前に国民に決起理由を述べさせてくれと懇願しましたがこれも叶うこと無く終わったのでした。

こうしてクーデターは鎮圧され15日の正午に無事、玉音放送も行われたわけですが
9日に開かれた御前会議、そして14日から15日正午までに
様々な危機的状況が続いたわけです。

そしてクーデターの当事者たちは次々と自害し、
更には事件鎮圧の功労者までもが責任を感じて自害しています。

最後に

阿南大臣もしかりですが、昭和に入っても尚、
死を持って責任を取るという風習が残っていたのに驚きました。
軍刀を使っての割腹と拳銃自殺です。

また、天皇の玉音放送が終わった後も、
各地の基地では降伏を受け入れられず混乱が続いていたそうです。

青年将校の決起、そして各基地の混乱から察するに
日本人にとって降伏というのは受け入れがたいものであり、
改めて国体護持の精神のもと天皇陛下への忠誠心が異常なほど高かった事がわかりますが

しかしながらポツダム宣言を受託しなかった場合、
アメリカはさらなる攻撃を続け、日本は焦土と化したに違いありません。

国を思う精神・・立派だと思います、しかしその国を支えているのは国民であり天皇ではない。
その繁栄の礎を築くことが出来る国民の身を案じてくれた
当時の昭和天皇の聖断が唯一の救いだったのかもしれませんね。

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