ウイスキー造りに人生を捧げた竹鶴政孝がモデルの朝ドラ「マッサン」。
スコットランドから帰国し、日本でウイスキー造りに着手するまで、かなりの時間がかかりましたが
記念すべき国産第1号のウイスキーの評判はどうだったのでしょうか?
書籍「ヒゲのウイスキー誕生す」からご紹介したいと思います。
もくじ (文字クリックでジャンプ出来ます)
住吉酒造(摂津酒造)の社長と別れ、鴨居商店(サントリー)で本格始動
竹鶴政孝がスコットランドでウイスキー造りを学ぶことが出来たのは、紛れも無く摂津酒造の社長のお陰であり、
その会社をやめるのは苦渋の決断だったと思います。
しかし、摂津酒造でウイスキー造りが出来なくなってしまった以上、
いつまでも在籍するわけにも行かず、浪人という形をとったのです。
そんな浪人生活中に、寿屋の社長が竹鶴青年に声をかけ、一緒にウイスキーを作らないかと打診したわけです。
社長は竹鶴政孝にウイスキー造りの全てを任せた、とは言うものの、
さすがに北海道の余市に蒸留所を建てたいという竹鶴の希望は却下され
日本初のウイスキー工場は立地の良い大阪にある山崎に建造されたのです。
国産第1号「白札サントリー」は当時の日本人の口に合わなかった?
昭和4年に国産初のウイスキー「白札サントリー」が発売され、大々的に宣伝するなど
社長・島井信治郎と竹鶴も自信作に胸を躍らせたが・・・。
結果は惨敗で全く売れなかったといいます。
お客が口をそろえて言う言葉は「焦げ臭い」。
ウイスキー特有のピートの薫香に馴染めなかったのが原因のようです。
当時、日本ではウイスキーの味を模造した商品(アルコールに香りづけしたもの)が一般的で
日本人でも飲みやすく、値段も安いことから受けは良かったようですが
本格ウイスキーの独特な風味はまだ早かったようです。
どちらにしても「白札サントリー」は当時では高価なお酒の部類に入っていたので
一般の方は手を出さないですし、上流階級の方も飲んでは見たものの
独特な香りに抵抗を感じていたのでしょう。
4年も熟成させて、ようやく販売に漕ぎ着けた第1号でしたが、
日本市場の現実を目のあたりにしたのです。
竹鶴いわく、
まだまだこれから熟成年数を重ねれば、深みのある美味しいウイスキーになる、
更に別のウイスキーとブレンドすれば豊かな味わいを楽しめるものになる
とのことですが、
島井社長としては待ちに待った4年、今までかかった費用をこれから回収していかなくてはいけない
という思いがありますが、ウイスキー造りを竹鶴に一任しているだけに複雑な心境です。
第1号のウイスキーは完敗でしたが、その後
10年、20年と、サントリーの山崎工場は日本を代表するウイスキー蒸留所に成長し、
皆に親しまれている「角瓶」、熟成された本格派の「山崎」など
日本のウイスキーの歴史に名を連ねた名品が今も飲み続けられています。
ちなみに竹鶴政孝が寿屋で製造に携わったのは10年。
社長と相反する考えであると察し、昭和9年に退社しています。
そして夢だった余市にニッカ工場を建てるべく動き出すのでした。