朝ドラ「とと姉ちゃん」のモデルとして脚光を浴びることになったしずこさん。
家族と女性を幸せにしたいと雑誌作りに人生を捧げた彼女は
戦前から戦後、復興とともに成長する日本の暮らしを華やかにしてくれた「暮しの手帖」の立役者です。
編集長の花森さんを支え、自らも足を運んで取材に回った彼女は
雑誌づくりが本当に好きだったのだと思います。
そんな彼女の人生観を
書籍「暮しの手帖とわたし」
別冊「しずこさん」
を参考にご紹介したいと思います。
もくじ (文字クリックでジャンプ出来ます)
「私が家族を支えなきゃ」父の死でそう決意する10歳の女の子
父は北海道大学を卒業後、母・久子さんと結婚し日本製麻株式会社に就職。
仕事は順調で北海道の工場長に就任するも風男をこじらせて体調が悪化し、結核に。
仕事を辞めて東京に戻り、入院生活が始まりましたが
治療のかい無く若くしてこの世を去ってしまった父。
息を引き取る前に
「鎮子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子の面倒をみてあげなさい。」(引用「暮しの手帖とわたし」)
と言われ、「わかりました」と大きな声でしっかりと答えた彼女。
この時、長女といっても彼女はまだ10歳の子供です。
父の臨終に泣き崩れる母、それを涙を流さず冷静に見ていた彼女も決して辛くなかったわけではありません。
「自分がこの家族を守る」とそう強く感じた彼女は泣いてなんかいられないと思ったのでしょう。
仕事で辛い時があっても、この光景を思い出し自分を奮い立たせる、という精神力の強さや
人前でも物怖じしない堂々とした彼女は10歳で父の葬儀で喪主を務めた経験があったから。
学業よりも商い魂
女学校時代、14歳の時に祖父の援助で歯磨き粉の製造販売をした大橋鎮子さん。
「とと姉ちゃん」の原作ともいうべき「暮しの手帖とわたし」の感想でご紹介していますので
詳しいことは省きますが、父が亡くなってからは彼女なりにいろいろと考えていたようですね。
女学校卒業後はすぐに就職して家計を助けたいと
銀行や新聞社でコツコツと仕事をしてきましたが、
男性よりも収入が低かったり女性は補佐的な仕事が多い世の中だったので
「自分で何かやらなければ」と考えたのです。
この時に、家を建てる需要があるからと材木商はどうかとか
洋裁の心得を身につけたので洋服屋を考えたりしましたが
最終的に暮らしに役立つ雑誌作りを思いついたのです。
結婚どころじゃない環境、そして大橋鎮子さんが独身を貫いた理由とは
大黒柱である父を早くに亡くし、長女である自分がなんとかしなければと
責任感の強い彼女の頭の中は家族のことでいっぱいでした。
卒業して仕事につく頃には日本は戦争に突入し、多くの犠牲を出し敗戦。
本当にどうなってしまうのかと思うくらい激動の時代を生き抜き、
家族の幸せのみを願い自分のことは本当に後回しだった彼女。
自叙伝や別冊「しずこさん」には恋愛の「レ」の字も見つかりません。
初恋の思い出など一つくらいはあると思いますが、
10代から、苦労する母親の背中を見て育った彼女は「早く助けたい!」と思っていたことでしょう。
そして社会に出て26歳の時に起業して衣装研究所の社長に就任。
花森安治さんと妹達で今までにない雑誌づくりが始まったのです。
別冊「しずこさん」では、
社長業と主婦業は両立できないので26歳の時に独身で生きることを決意
と紹介されています。それだけ覚悟していたということですね。
最初は家族のためにという思いが強かった彼女はやがて
全国の女性を幸せにしたいという気もちへと変わり、雑誌作りがやりがいへと変わっていったのです。
趣味より働くことが一番好き
学生時代はテニスやスケートが得意で、趣味は宝塚の観劇だったそうです。
ですが社会人になってからは仕事が忙しく、これといった趣味も無かったとか。
人と関わることが大好きという鎮子さんは、つねに誰かとおしゃべりをしたり
街に出掛けては記事になりそうなネタ探しをする。
社長なのに何でもやる、お話し好きの鎮子さんは90歳になっても仕事場に顔を出していたそうですから
本当にこの仕事が好きだったのだと思います。
大橋鎮子さんの夢
女性が主に読む本ですから、女性社員を積極的に採用した彼女。
とても賑やかな職場だったと思います。
そんな楽しい職場づくりをしてきた鎮子さんが晩年に描いた夢が
独身の女性が暮らすグループホームを作ること。
自身も独身でしたから同じ境遇の人同士、楽しく暮らせる場所があればと考えていたのでしょう。