「仰げば尊し」実在モデル中澤忠雄先生の音楽に全てを捧げた生涯

2016年7月、TBSで放送される日曜劇場は実話を元にした感動作。
1300校が参加する吹奏楽コンクールで頂点に立ったのは横浜にある無名高校。

今回はそんな無名の吹奏楽部を日本一に押し上げた1人の男性にスポットを当ててみたいと思います。
自称「音楽バカ」という彼は学生の頃から音楽に携わり、プロの音楽家へ。
事故が原因で音楽家の道を諦め、町の音楽教室の先生として軌道に乗り始めた頃、
「吹奏楽部を見てもらえませんか?」と声をかけられたことから彼の人生が大きく変わっていくのです。

「音楽はこころ」と生徒に教え、「野庭の音」を作り上げた彼の人生とは?

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中澤忠雄の幼少時代、厳しかった母親

奈良県天理市で生まれ育った中澤少年は4人兄弟の次男坊。
父親は幼いころに既に家におらず、戦争で満州へ渡り、ロシアとの国境付近に配置されたあと行方不明に。
戦争が終わっても帰ってくることはなかったそうです。

母親は女手一つで4人の育ち盛りの子供たちを食べさせていかねばならず、
ある日、子供たちが食べ物をせがんでいたら「たくあん一切れずつ」だったことや
母親が独り泣いていたのか、目を赤く張らせていた光景が目に浮かぶという。

そんな明るく気丈に振舞っていた母親を怒らせてしまう事件がありました。
奈良航空隊基地の予科練習生が家族と面会する場所に民家が使われ
中澤家も面会場所として使われていたのですが、
面会に来た家族は、いつ帰ってくるかわからない息子に
何とか工面してお菓子などを用意していたが、それらを保管しておく場所が中澤家にあり
少年はついそのお菓子に手を付けてしまったのです。

今まで見たことがない母親の怒り狂った様子に少年もびっくりしたと思いますが
母親は息子を引きずって交番まで連れて行き、そこでようやく許してくれたそうです。

青年時代

中澤氏は、優しさ以上に怖さがあり、とにかく母親は厳しかったと語っていますが
「道にそれた時は必ずおふくろを思い出す」とのこと。

生徒を指導するときは頻繁に「おふくろ」が話題になるそうですが
親の話をすると「生徒たちも良い音を出してくれる」のだという。

彼にとっておふくろは特別な存在であるとともに、
その大切さを生徒たちにも教えることで「こころの教育」をしていたのかもしれません。

 

人のものに対して敬意を払うこと、感謝すること、思いやりを持つこと、
母親から多くのことを学び、大きくなった少年は1951年に天理高校に入学し吹奏楽部に入部。

高校時代は3年連続吹奏楽コンクールで賞をとった経験者でもあるのです。
そんな彼の進学先は東京芸術大学で在学中に日本フィルハーモニー交響楽団に入団。
1960年にNHK交響楽団に移籍し、海外公演も経験。

1962年に読売日本交響楽団の創設に参加。
華々しいオーケストラの奏者としての人生がこれからもずっと続くのかと思いきや
交通事故で頭蓋骨にヒビが入り、退院後に待ち受けていたのは厳しい現実で、
彼はチューバ演奏者でしたが、上手く音を出すことができなくなってしまったのです。

1970年に仕方なく読売日本交響楽団を退団し、音楽から離れた生活をしていましたが
3年が過ぎたある日、近所の人から「子供のピアノを見てくれないかしら?」という声をきっかけに音楽教室が始まったのです。

野庭高校の吹奏楽部の顧問に

音楽教室もようやく軌道にのり始めた頃、野庭高校の吹奏楽部を見てやってくれないか
ということを楽器店の店主から言われ、乗り気じゃなかったのですが、
重い腰を上げて高校へ行き、吹奏楽部の演奏を聞いた時に、中澤氏は何かを感じたという。

部長の真っ直ぐな目を見たら断ることも出来ず、
1982年に野庭高校吹奏楽部の指導がスタートするのです。
1ヶ月の報酬は1万円でボーナスも1万円。自宅の音楽教室が軌道に乗り始めた頃なので
生活のことを考えると、引き受けるリスクは相当なものだったと思いますが
「この子たちを何とかしたい」と思ったのでしょうね。

悪戦苦闘の日々、独自の指導法

1982年から野庭高校吹奏楽部の指導が始まり、
翌年には吹奏楽コンクールの全国大会に初出場で金賞受賞。
その翌年の1984年も出場し2年連続の金賞受賞を果たした。

他校はユニフォームがあるのに対し野庭は高校の制服、そして楽器は借り物だった。
資金力がある私立高と比べて資金の無い無名の公立高校が努力の末勝ち取った栄光です。

しかし生徒指導は相当苦労したようで、始めの1年は音楽を教えることよりも
コミュニケーションがとれていなかったので生徒たちと一緒にどこか出掛けたり
スポーツをして生徒同士の関係を強化することから始めたという。

言うことを聞かないのは当たり前、
ほとんどの生徒がタバコを吸っていたらしいく、吸うなと言っても聞かないので
自宅に招き入れた時は灰皿を出して生徒を驚かせた逆指導法のおかげでタバコをやめてくれたとか。
多少問題のあるやり方ですが、音楽をただ教えるだけでなく
生徒と本気で向き合い、一歩踏み込んだやり方はなかなか出来るものではありません。

おかげで中澤氏の自宅は連日生徒たちで賑わっていたそうで
慕われ信頼される先生になっていたのです。

海外でも活躍、しかし体に異変が・・

1986年カナダのバンクーバーで国際交通博覧会が開催され
その催しの一つとして野庭高校吹奏楽部の演奏会が開かれました。

毎年恒例のコンクールの練習など忙しい毎日を過ごしていた中澤氏は
カナダ出発前、練習中に急に胸が苦しくなり緊急入院。
実はこの時、狭心症と診断されたのです。

薬を携帯してカナダへ出発し、滞在中は特に問題ありませんでしが
帰路の空港機内でまた胸が苦しくなり空港に到着と同時に救急車で運ばれる事態に。

この時期にもう少し体をいたわっていれば・・・と思うと本当に悔やまれますね。
自分の体よりも音楽優先、家族の心配を他所にただ一心に教えることだけに集中していた中澤氏。

狭心症のため、常にニトロを携帯していた彼は
胃の不調を訴え、練習中にまた倒れてしまったのです。
生徒たちに「自分は癌だ」と正直に打ち明け、それでも皆と一緒に全国大会を目指す!
ということを話していましたが、さすがに心配する生徒たち。顔色が悪いというのは誰が見ても明らかでした。

「死んでもいいから振る」

1995年、ドクターストップがかかったにも関わらず
コンクールに出場すると言う中澤氏は「死んでもいいから振る」と
指揮者は自分でなければいけないと頑として医師の言うことを聞かなかったのです。

胃の大半を摘出したせいで食生活が変わり、少しの量を頻繁に食べたり
栄養補助食品を摂取したり、それでも体重は減っていき、全盛期は90キロあったものが
60キロまで激減するなど、彼の体力は見た目からも想像できるくらい低下していたのです。

「倒れずに最期まで指揮をすることが出来るだろうか」

皆が心配していたのは成績よりも中澤氏の体だった。
無事に最期まで演奏を続けることが出来、
そしてこの年は参加校の中でも一番の成績をおさめることが出来たのです。

まさに鬼神のごとく指揮棒を振っていたのだと思います。

苦節14年、ようやく日本一になることが出来た野庭高校。
生徒たちの喜びようはご想像のとおりなのですが、
体が悲鳴をあげていた中澤氏は喜びもそこそこで直ぐに体を休めることに。

一般的な吹奏楽の教ええ方は分かりませんが
彼はプロの音楽家で、生徒にもそれなりの技術レベルを要求していたのは事実。
しかし技術を教えるのは表現の豊かさを広げるためであって
例えば彼は「ここは恋人たちが愛を語るシーンだから」とか
「ここはお母さんに感謝の気持ちをもって優しく」というニュアンスで指導してきた。

ただ演奏するだけでなく心が伴った表現方法が「野庭の音」だったのです。

指揮台に立つのはこれが最後

1996年3月、日本一をとった翌年の定期演奏会で指揮台を下りることを決意していた中澤氏。
娘のみどりさんは思春期だったころは父親と距離をおいていたそうですが
成人して社会人になってやっと父を冷静に見れるようになったとか。
そんな娘もこの父親の最後の晴れ舞台を見ようと母と一緒に見に来ていたとか。

音楽葬で先生と共演

痛み止めのモルヒネで時折ぼーとすることもある中、
家族のように頻繁に見舞いに来てくれたのが教え子たちでした。
身の回りの世話など家族だけでは出来ないことをサポートしてくれた彼らの存在はとても大きい。

そんな生徒たちに見守れながら彼は天国へと旅立って行きました。
そして9月中旬、卒業生が主催する音楽葬では
ステージ上に設けたスクリーンに映し出された指揮棒を振る中澤氏の勇姿にあわせ
教え子が指揮棒を振り、卒業生と現役部員の共演が実現しました。
会場は一体感に包まれ、すすり泣く人があちらこちらにで見られ
音楽に人生を捧げた人に相応しい最後の別れとなりました。

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野庭の音は生き続ける

日本一に輝いた年の祝賀会で彼はこう言ってました。
「野庭の火を消さないで欲しい」

その思いは卒業して社会人になった教え子たちが楽団を結成することで守っていました。
彼の名をとって「ナカザワキネン会」という楽団名で、楽しく活動されているようです。
そしてもう一人、横浜にある中学校で音楽教師をしている教え子が吹奏楽部の顧問として
「野庭の音」を生徒たちに教え伝えています。