10月3日から放送されることになった朝ドラ「べっぴんさん」。
今回はヒロイン・坂東すみれの父親・坂東五十八のモデルになった方をご紹介したいと思います。
実は娘さんも凄いんですが、この方も日本を代表するアパレル会社の創業者。
演じるのは個性的なキャラの生瀬勝久さん。
ドラマでは大阪が舞台なので彼の関西弁が楽しみですね。
ドラマを見ながら参考にしていただければ幸いです。
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娘を溺愛した父親・佐々木八十八の生涯
とにかく西洋文化が大好きで仕事もプライベートも外国製品に囲まれた生活をしていた父。暑がりで寒がりだったという惇子の父・佐々木八十八(やそはち)さんはどんな人だったのでしょうか?
坂野惇子さんの記事でも父親に関することは触れていますが、子供二人を早くに亡くしているので彼の過保護っぷりは異常なほどでした。風邪が心配だから通わせる学校は出来るだけ近い場所を選んだり、毎日子供の体温を計ったり、キャラメルをアルコール消毒したりと娘も困惑するほど健康に気を使っていました。
八十八は明治7年4月2日生まれで両親は京都市下京区にあるべっ甲商を営んでいました。ちなみに名前の由来は生まれた日が八十八夜だったことからその名がつけられたそうです。
20代で起業したグローバルな青年
六甲山に別荘、住吉山手に建てた3階建ては洋風建築で、とにかくハイカラには目がなかったという父親。
グローバルな仕事がしたいと考えていた彼は輸入雑貨の商社「大由商社」に住み込みで働きながら英語を勉強するため浪花英和学校に通っていました。
そして明治35年に繊維の卸売を生業とする「佐々木営業部」を設立。国内の衣料品だけでなく海外からも輸入する会社を立ち上げたのです。
なぜ社名が「佐々木営業部」なのか?
「営業部」なので会社の部署名?と思ってしまいますが、実はこの名前には理由があるんです。
20代後半で大きな野望を抱いていた佐々木青年は営業部だけでなく製造部や工業部など財閥を作り上げる大きな夢がありました。当時、三井、住友、三菱などの財閥は戦争特需の恩恵を受けていますが、八十八が経営する佐々木営業部も軍用品を納入して大きな利益を上げていました。
そして経理に明るい尾上設蔵が入社すると、やがて彼に会社を任せて自分は政界に進出。惇子が4歳になる頃、イギリスのエドワード皇太子が来日し、その時に乗船していた巡洋戦艦レナウンの名前をとって社名を「レナウン」に変更。しかし第二次世界大戦中は敵性語を使えないと言う理由で「東京編織株式会社」に一時的に変更し、戦後は「レナウン工業株式」に、最終的に「株式会社レナウン」となりました。
レナウン娘って知ってる?
1960年代から90年代まで「レナウン」のテレビCMが放送されていました。リアルタイムで見ていた人なら「ワンサカ娘」と言えばあのメロディーが頭の中で再生されるはず(笑)私は80~90年代のCMを見ていたと思いますが、まさか60年代から放送されていたとは思いませんでした。
政治家としても活躍
レナウンを商標登録した大正12年に八十八は大阪市の区会議員に当選し政治家として活動を開始。昭和6年には多額納税者から選出される貴族院議員に就任し、貴族院が廃止されるまで活躍したそうです。
佐々木八十八ってどんな人?
「人を見かけで判断してはならない」
この八十八の信念は佐々木家の家訓でもありました。会社経営に成功し、一代で財を築き上げた資産家ですが、決して人を見かけで判断したり、見下すような態度は取らなかったのです。当たり前のことですが、当時の資産家は偉そうにしていた人が多かったのは事実。
しかし八十八はお手伝いさんにも良い着物を着せて娘のように接していたので町では評判の資産家だったとか。それと佐々木家が利用していたモトヤ靴店の店主も八十八を尊敬しており、その恩返しとして店主は後に娘の惇子を助けることになるので八十八の存在は非常に大きい。
過保護でしたが厳しさはなく、惇子が学生時代に男子生徒と出かけたグループデートも許可を出しています。不安だったと思いますが懐の広さも感じますね。
父親のハイカラ好きは娘の惇子にも多大な影響を与えています。外国人が多く住む街で暮らし、西洋風の子育てをいち早く取り入れ、子供服を手作りし、やがてそれが商売になる。父親の「オリジナル商品を作れ」という言葉を胸に赤ちゃんやママに優しい製品づくりで日本を代表する子供服メーカーに成長させ、やがて皇室からもお声がかかるようになったのです。
父親の死
昭和32年、八十八が病気で倒れ、惇子は看病のため京都の実家まで通っていたそうです。仕事から帰ると家族に夕飯を食べさせ、最終電車に乗って京都へ行き、朝の6時頃まで看病する。睡眠時間はたったの3時間。父が亡くなるまでこうした生活を続けていたそうです。
父の臨終のエピソードは惇子さんのページでご紹介しましたが、無くなる直前「かまどの火が燃えているので早く蓋をしなさい」とうわ言で話していた父。
何のことかさっぱりわからないけど、惇子は「閉めましたよ」と言い、父親は安心して眠ったそうですが、火葬の時に火が燃えているにも関わらず蓋が中々閉まらなかったそうなので、うわ言で言っていたのはまさかこのことなのか?というちょっと怖い出来事があったそうです。