2016年10月から始まる朝ドラ「べっぴんさん」。
神戸育ちのお嬢さんが戦後に子供服ショップを立ち上げ、まさか大阪を代表する子供服メーカーになるとは夢にも思わなかったことでしょう。
今回は、そんなドラマのヒロイン・坂東すみれのモデルとなった女性を幼少時代から丁寧にご紹介したいと思います。
ちょっと長めです・・・^^;
このページでは
・「子ども服にこめた「愛」と「希望」 (中経の文庫)」
・皇室御用達をつくった主婦のソーレツ人生
この二冊を参考にまとめてみましたので、
原作本ではないですが、実在する彼女の生い立ちやファミリアの軌跡を知ることが出来ます。
もくじ (文字クリックでジャンプ出来ます)
物語の前に・・・「べっぴんさん」の意味
「べっぴんさん」というと美しい人をイメージされる人が多いと思いますが、もう一つ「別品」と言う言葉もあります。
別品とは「特別に良い品」という意味で、まさに主人公たちがポリシーを持って作り上げた子供服がそうでした。戦後は品薄で物を作れば売れる時代でしたから、粗悪品も多く流通。中にはちゃんとしたものもありましたが既製品とは違う手作りの子供服はまさに「別品」だったのです。
板野惇子の子供時代~結婚生活まで
(出典:ファミリア公式サイトより)
過保護に育てられた子供時代
阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が阪神間を結んだ前年、1918年(大正8年)に父親・八十八(やそはち)と母親・倆子(りょうこ)の末っ子として生まれた惇子(あつこ)。
関連:父親・佐々木八十八ってどんな人?娘を応援したレナウンの社長
佐々木家は三男三女の子宝に恵まれましたが長女と次男を早くに亡くし、そのせいもあって子供の健康管理は度が過ぎるくらい気を使っていたようです。
朝晩は欠かさず子供の体温を計ったり、外で作った食べ物は食べさせない、キャラメルはアルコール消毒するという徹底ぶり。
また、彼女は体も弱く学校を休みがちだったので自宅から離れた私立の学校は諦めて近所の公立小学校に通わせることになったのですが、同級生たちはごく一般家庭の子供たち。継ぎ接ぎの服を着るのは当たり前で、その中に身なりの良い女の子がいれば当然浮いてしまう。
しかも登下校や遠足にも使用人をお供につけていたので「別荘の子」とアダ名をつけられてしまったのです。洋服を着たくないとか、継ぎ接ぎの靴下を履きたいと愚痴をこぼしていた彼女も両親の度が過ぎた過保護っぷりに困り果てていたのでしょう。
豪邸にお引っ越し
昭和4年、惇子が11歳になった年、
住吉川の川沿いに住んでいた佐々木家は阪神の御影駅にほど近い住吉山手に引っ越し。豪邸とも言える三階建の洋館はエレベーターや当時では珍しい洗濯機や電気風呂など最新の設備も完備していたそうです。
しかも娘がいつ病気になってもいいように病室と看護師用の部屋まで用意していたとか。両親は資産家だということはわかりますが、まさか父親がレナウンの創業者だとは思いませんでした。(父親に関しては別記事でご紹介します)
生涯をともにする親友との出会い
昭和6年、甲南女学校に進学した惇子は成績トップで入学。得意科目は数学だったようです。
そんな女学校時代に運命の出会いが待っているのです。
1人はファミリアの創業メンバーで親友の榎並枝津子。彼女の父親は阪東調帯護謨株式会社(現・バンドー化学)の社長・榎並充造。彼女も惇子同様、社長令嬢ということになります。
彼女とは一年生から同じクラスになり、育った環境など同じ境遇同士すぐに意気投合。登下校も一緒、部活のバスケも一緒、とにかく女学校時代は二人で過ごす時間が多かったようです。
夫・坂野道夫との出会い
当時は見合い結婚が当たり前の時代でしたが、彼女はなんとグループデートが縁で夫の坂野道夫と出会っています。
女学校4年生のとき、甲南高等学校の男子生徒とスキー場に出かけグループデートを楽しんだとか。その男子生徒の中に道夫がいて、二人は惹かれあう中に。道夫が18歳で惇子が16歳の初々しい時期。スキー場の帰りに彼女のリュックの紐が解けていたので道夫が結んだという微笑ましいエピソードもあるようです。
※坂野道夫ってどんな人?ファミリアの発展させた凄腕社長の人生
学業のため遠距離恋愛に
昭和11年、女学校を卒業した彼女は「東京は見てきたほうが良い」という父のすすめで東京女学館高等科に進学・三浦家に嫁いだ姉のもとで2年間の居候生活が始まるのです。
一方、道夫は京都帝国大学経済学部に進学しアパートで一人暮らしをスタート。離れ離れになった二人は縁を断ち切ること無く遠距離恋愛を続け、昭和14年に婚約。
結婚そして出産
昭和15年、大学を卒業した道夫は大阪商船三井船舶に入社。同年の5月12日に二人は目出度く結婚したのです。
世界は第二次世界大戦に突入し、若い男性は戦地に駆り出される状況。
しかし運が良かったと言うべきか、道夫は肋膜に影があるということで徴兵を免れ岡本に新居を構えて新婚生活が始まったのです。
岡本と言えば当時は外国人が多く暮らす街。そんなハイカラな街で夫婦生活を営む二人に待望の赤ちゃんが誕生。昭和17年10月に長女の光子が生まれたのです。
外国人が多く暮らすこの街で居を構えたのは偶然か、それとも異文化に触れたいという彼女の希望でしょうか。元々父親が西洋文化を積極的に取り入れていた人ですから、その影響は大きい。そして隣りに住んでいたイギリスのオーツ夫人と知り合い、西洋式の子育てを学ぶことになるのです。
「日本は子育てが遅れている」
惇子にとって衝撃的な言葉でしたが、確かに夫人の育児方法は日本と全く違うものでした。そして夫人の紹介でベビーナースを雇うことになったのですが、これがまた月給が高い。当時、大阪商船三井船舶で働く道夫の給料が90円、しかしベビーナースには月に150円も支払っていたのです。
ベビーナースとは外国人医師から指導を受けて外国人の家庭を専門に育児指導する看護婦のこと
指導に訪れてのは大ヶ瀬久子で、のちにファミリアのベビーコンサルタントになる人物。光子が生まれた時から坂野家と関わりがあったということですね。
夫が戦地へ
健康な体じゃなかったのが幸いして徴兵を免れた道夫でしたが、太平洋戦争が勃発し勢いのあった日本軍の旗色が悪くなると道夫も戦地へ駆り出されることに。
昭和18年10月、娘の光子が生まれて一年後に道夫はインドネシアのジャカルタへ赴任することが決まったのですが、ジャカルタ出発の日に野戦重砲兵の赤紙が来ていたそうなので、もし赤紙が先に来ていたら道夫は戦地で帰らぬ人となったかもしれません。
軽井沢へ一時避難
昭和19年、惇子が暮らす神戸にも空爆が来るという噂が流れたので父親が所有する軽井沢へ荷物を持って避難することにしたのですが、夏の避暑地用として建てた建物なので冬はとにかく寒い。冬を越す自信が無かった彼女は同年に岡本に戻ることに。
ただ、軽井沢へは大切な手芸道具や外国製の高級布地なども多数避難させており、これが後の商売で役立てられるのです。またこの時、父親から貰ったオーダーメイドのハイヒールがあるのですが、これもファミリア創業のきっかけになるとは夢にも思わなかったことでしょう。
空襲で家が全焼、姉の居る岡山へ疎開
噂は現実のものとなった。
昭和20年に神戸を襲う大空襲が始まったのです。このときに岡本の家は全焼し、姉夫婦が居る岡山県へ疎開することになったのです。
姉夫婦も東京で暮らしていましたが被災したため夫の実家がある岡山県勝山町に戻っていたのです。そして岡山に身を寄せていた惇子の元に夫からの手紙が届いたときはどんなに嬉しかったことか。そして昭和20年8月15日、日本がポツダム宣言を受託し戦争が終わりましたが、心配なのがあれから便りがない夫の道夫。無事帰ってこれるのか?今はただそれだけが心配でした。
戦後~ファミリア創設
日本は戦後すぐにインフレ政策が実施され、新円の切り替えとともに預貯金を凍結して引き出しの制限を行い、更に臨時財産調査令なるものが実施されたのです。
いわゆる財産があるものに対して課税するということですが、税率は額が多ければ多いほど高くなり、最高で90%課せられるというまさに資産家にとってイタイ税制だったのです。
では坂野家はどうでしょう。不動産や株式そして預金の合計は40万~50万。三菱信託預金が10万円。当時の10万円は現在の1億円に相当すると言われているので、約6億円の資産を保有していたことになります。
しかし90%も課税されてしまうと手元に残るのは6000万。けれど手元に現金は無いし、土地は売れない。このままでは全て取り上げられてしまうので相談がてら久しぶりに父の元を訪れたのです。
父との再開、そして尾上清との出会い
震災で郷里の京都で暮らしてた父親と再開し、つもる話はあったと思いますが、彼女が訪れた時に尾上清(おのうえきよし)が来訪していました。
尾上は父親が経営する佐々木営業部でその優秀さを認められた人物。レナウンの創業者でアパレル業界のドンと言われたこの男との出会いは彼女の人生にとって大きな出来事でした。
昭和21年早春、
父親宅に来ていた尾上に戦地から帰らない夫のこと、財産は封鎖されお金を引き出すことが出来ないこと、この難曲をどう乗り切って良いのか率直に聞いてみました。
尾上いわく、
「時代は変わった、昔のお嬢さんのままではダメです。仕事をして自分の力でいきていかないといけない。働くということは楽しいことですよ。」
と説いたのです。そして父親が尾上に賛同したのは意外でした。惇子は出来れば援助を・・・と考えていたので予想外の展開だったのかもしれませんが、
「いつまでも箱入り娘のお嬢さんではいられない、自分で何とかしなきゃ!」
と思ったのです。
道夫の帰還
8ヶ月ぶりに届いた夫からの手紙には「すみれの花が咲く頃に帰れそうです」という嬉しい言葉が綴られていた。
そして昭和21年4月、日本人を乗せた「すみれ丸」が呉の大竹港に到着。その中に道夫の姿があったのです。実に2年ぶりとなる日本に生きて帰ってこれた道夫と惇子は再開を喜びあったのでした。
今回の朝ドラのヒロインは「すみれ」でしたね。偶然?それともここから名前を取ったのでしょうか?
新生活のスタート
昭和21年5月、阪急沿線の塚口で新たな生活をスタートした坂野家。家財道具などは一切なく食事をするのも一苦労。不自由な生活でも家族がいれば幸せ。お嬢様育ちの彼女は意外と困窮した生活を楽しんでいたようです。
初めての仕事は慈善事業?
夫が帰ってきたからと言って専業主婦のままではいられない。尾上の言葉を思い出し、自分に何が出来るのか考えてみると、女学校時代から学んできた洋裁がある。彼女は洋裁学校も卒業しているし、刺繍の手ほどきも受けている。
更に、軽井沢に避難させておいた高級な布地と裁縫道具も揃っている。食糧難のこの時期は少しでも食べ物に替えるために家財道具を処分するのが普通でしたが、彼女はいずれ役に立つ時が来ると考えていたのでしょう。まさにその時がきたのです。
手始めに近所の子供達の洋服を縫うことから初めたのですが、現金を請求することが出来ず、現物をもらっていたので仕事としては成立しませんでした。
惇子は人からお金を貰うことにかなり抵抗を感じていたようです。
父がくれたハイヒールが思わぬ展開に
昭和23年、道夫は尾上の厳しい指導の元、佐々木営業部で働いていますが、まだまだ生活は楽にならない。父親がくれたまだ1回も履いていないハイヒールを売って生活費の足しにしようと考えた彼女は阪急三宮駅からほど近い三宮センター街にある「モトヤ靴店」を訪ねました。
6足のハイヒールの中には嫁入り道具だったものも含まれており、それは店主の元田蓮が丹精込めて作った彼女の足のサイズに合わせた特別な一足。
元田は
「貴重な材料を集めてお嬢さんのために作ったものですから、お預かりできません」
ときっぱりと断った。店主の意外な言葉に驚きつつ、自分のために作ってくれたハイヒールを売ろうとした自分が恥ずかしくなり、子供の話題に話を変えた。
ふと店主は惇子が持っている手提げかばん、そして手作りの写真入れに目をやり、その出来栄えに感心し、
「ショウケースをお貸ししますからハイヒールを売らずにこれを売ったらどうですか?」
と意外な提案にびっくりしますが、彼が言うには恩返しがしたいのだという。戦前は往々にして資産家は人を見かけや職業で見下すのが普通。しかし佐々木家はそれがなく、客のようにもてなしてくれたのが忘れられないという。
「今度は私が助ける番。ぜひ使ってください。」
彼の優しさに思わず言葉が詰まる彼女。なんだか希望が湧いてきた瞬間です。
主婦が集結、夫は賛成!でも何を売るの?
女学校時代からの親友・田村枝津子も洋裁は得意。そして枝津子の義姉・田村光子も洋裁には自信があり、二人に相談したら快く引き受けてくれましたが、問題は彼女たちの夫。
「主婦は家を守るもの」というのが一般的な考えでしたから女性が外に出て働くというのは理解されないのが当たり前でしたが、意外にも夫たちは快諾。彼女たちが作る物は素人っぽさがなく「売れる」と思ったのでしょう。
手伝ってくれる仲間ができた、夫も賛成してくれたけど、彼女らは何を作ったら良いのか悩みました。惇子の父親は「オリジナルの商品を売れ!」その言葉を念頭に考えついたのが子供服でした。
子育ての経験があり、衣類や道具の知識があるのでそれを商品に活かしたら良い。赤ちゃんのことを考えた品質の高いベビー用品を作ろう!彼女らの掲げるモットーは2つ
1、自分の子供に着せるつもりで作る子供服
2、家庭との両立
目標が決まればことは早い。資金も人手も足りず、出資するお金もないのでとりあえずは現物をそれぞれ提供して商品を作ることから初めた。
そしてもう一人、創業メンバーとして村井ミヨ子も誘われ、4人でスタートすることになったのです。ミヨ子は4人の中で一番年下で、坂野夫婦に憧れていた女の子。犬の散歩をしている垢抜けた夫婦を遠くから見つめていたのが彼女で、声を掛けたのが夫の道夫でした。
「あなた、子犬いらない?」
そこから坂野家とミヨ子の交流が始まり「みよちゃん」「かあちゃま」と呼び合う仲になったのです。惇子のことを「かあちゃま」と呼ぶのは彼女と娘くらいでしょうね。
「ベビーショップモトヤ」オープン!
友人知人らも駆けつけての製品づくり。尾上が提供してくれた進駐軍の枕カバーは可愛らしいよだれかけに、そして自分の娘に布地をあてて立体裁断して作ったおしゃれなドレス。どれも貴重な外国製の刺繍糸や毛糸で作った自慢の子供服をモトヤ靴店内のショーケースに並べて当日を迎えた。
昭和23年12月4日、慌ただしい年の瀬にオープンしたこの日の売上は4万円。広告を出していないので行列は出来ませんでしがお客さんの入りは上々。20万円分の商品を用意しましたが数日でショーケースはガラガラ。連日、睡眠時間を削って製品づくりに励む4人の主婦たち。果たして12月の売上はいかがだったのでしょうか?
利益はたったの毛糸2個分
道夫の提案で1ヶ月の決算を行うことになったのですが、計算してみると利益はたったの毛糸2個分。
彼女たちは商品代金に材料代はちゃんと上乗せしていましたが、電気代・家賃・包装紙はともかく肝心な手間賃を入れずに値段を決めていたのです。
見かねた夫たちは少しずつ経理業務を彼女たちに教えていったのです。
時代は彼女たちを後押しした
年が明けた昭和24年もベビーショップモトヤは順調に売上を伸ばしていました。デザインが良くて品質も良い、だからこそ売れるのですが、経済が追い風になったことも挙げられます。
戦後間もない昭和22年からの3年間、貧しかった日本もベビーブームが到来していました。年平均250万人以上、昭和24年に至っては270万人に迫る出生数を記録しており、現在の約2.5倍。
戦前の日本を取り戻すかのように目覚ましい発展を遂げたわけですが、そうした経済の急成長も彼女たちの商売を後押ししたのです。品薄で物を作れば売れる時代。だから粗悪品が多かったのですが、そういったものは反面教師にして「手作りで良い品」を作り続けたのです。
株式会社ファミリア誕生
主婦4人がモトヤ靴店の一角を借り、商売を始めて1年で独立。誰がこのスピード成長を予想できたでしょうか?
昭和24年12月、靴店の隣の店舗が空いたのでベビーショップモトヤは自分の店をかまえることになりました。しかし独立店舗を構えて間もなく、更に大きな店舗で子供服を販売することになったのです。
実は尾上が社長を務める佐々木営業部はモトヤ靴店の近所に2階建ての衣料品直販店舗をオープンしていましたが1年足らずであえなく撤退したため、これはチャンスとばかりに夫たちの後押しで2階建ての大きなお店を持つことになったのです。
3坪の店でも商品補充がままならないのに2階建てと聞いて圧倒する主婦たち。しかし作れば売れると確信した夫たちと尾上のすすめもあり、佐々木営業部から店舗を破格の値段で譲り受けたのです。
これは良い機会かもしれない、会社組織にしてしっかりとした経営をしていこう。話はトントン拍子に進み、会社役員は社長にモトヤ靴店の元田、専務に坂野惇子、常務に川村睦夫を起用。川村という人物は商店街で婦人服を扱っている川村商店の店主。主婦たちで商品を埋め尽くすのは困難なので川村の婦人服も置いてもらうことになったため、経営に参加することになったのです。
そして昭和25年4月12日、社名を家族という意味の「ファミリア」とし、三宮町2丁目に「ベビーショップ・ファミリア」をオープンさせたのです。惇子が32歳を迎える前日のことでした。
次のページではファミリアの軌跡と晩年の惇子さんをご紹介