2016年10月からスタートする朝ドラ「べっぴんさん」のモデルはファミリア創業メンバーの代表・坂野惇子さん。今回はファミリアを発展させた夫の道夫さんをご紹介。
朝ドラでは永山絢斗さん演じる坂東紀夫という無口な男性として登場。この男性のモデルとなる道夫さんとは、一体どんな人物なのでしょうか?
ちなみにドラマではヒロイン側の名字で名乗っていますので婿養子という設定なのかな。
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坂野道夫の生まれ
道夫は大正5年9月30日、父親・兼道と母親・エイ子の末っ子として生まれました。
兄妹はなんと兄が6人、姉が2人の大家族。父親はとてもしつけが厳しい人でしたが、末っ子の道夫には甘かったようなので、この点は惇子さんのお父さんに似ているのかもしれませんね。そんな父親も道夫が中学2年の時に他界。なので父親代わりになってくれたのが21も年歳が離れた兄でした。
さて、早くに亡くなった父親の兼道はどんな人物だったのでしょうか?
実は士族(武士の家柄)の出身で現在の一橋大学卒業後は、のちに首相になる加藤高明の推薦で三菱銀行に入社しています。このことからとても優秀な人材であることがわかりますね。
その後は銀行の総理事や10数社の役員を歴任した経済界でも名のしれた人物でした。
学生時代
惇子が甲南高等女学校を卒業したのに対し、道夫は甲南高等学校の中等部、そして高等部を卒業。甲南高等学校は7年制でしたが道夫は肋膜炎(胸膜炎)を患い1年休学したので8年で卒業。ただ、普通に通っていても1割ほどの生徒が留年していたことから学力が高く厳しい学校だったようです。
出会い・グループデート
既に坂野惇子さんの記事でご紹介していますが、道夫が高等部1年生の時にグループデートで知り合ったのが惇子さん。一生懸命滑る姿や屈託のない笑顔を見て惚れてしまったとか。帰りに惇子のリュックの紐が解けていたので結び直してあげた彼。二人が意識し合うのも時間の問題です。
それから交際が始まったわけですが、惇子が東京の女学校に通うことになったので2年間遠距離を余儀なくされることに。しかし二人は連絡を取り合い、昭和14年に婚約が成立し、翌年の昭和15年に結婚。道夫は京都帝国大学経済学部を卒業後、大阪商船株式会社(商船三井)に入社して新婚生活が始まったのです。
戦争で戦地へ
娘の光子が生まれて1年が過ぎた1943年10月、道夫も戦地へ向かうことになったのです。行き先はインドネシアのジャカルタ。しかし不幸中の幸いか、出発の日、陸軍からも野戦重砲兵として赤紙が届いていたので、こちらの赤紙が先に届いていたら、おそらく生きては帰れなかったでしょう。
ジャカルタでは運輸課に配属され、勤務内容は人員から物資まで幅広い輸送業務を担当していた。末端の兵士では無かったので銃撃戦など経験すること無く、メイド付きの家にも住んでいたので、戦地と言っても楽な生活をしていたという。
そして終戦の8月15日、ジャカルタでこの日を迎えていた道夫は、英語や現地語が少々出来たことから連絡将校となる。引き上げは思うように進まなかったようですが、終戦から9ヶ月が過ぎた1946年4月、道夫は無事日本に帰ってきたのです。
道夫を激怒させた惇子の失敗エピソード
「ベビーショップもとや」が繁盛し惇子も家事と仕事を慌ただしくこなす毎日を送っていましたが、ある日、仕事が遅くなり最終列車に乗った彼女は車内で居眠りをしてしまい電車の車庫で一夜を過ごすことになったのです。始発で帰ってきた惇子に対し玄関で怒鳴り声を上げた道夫。怒るのも無理はありません。それだけ彼女のことが心配だったということでしょう。
馴れ合い家族経営のファミリアを企業経営に
道夫は佐々木営業部を退社後、ファミリアに入社し、昭和31年に社長に就任。妻達が経営するファミリアを「危なっかしくて見てられない」と思ったのも無理はない。
どんぶり勘定の在庫管理、売れるからと陶器を2万個発注したり、やることは大胆で大雑把、しかし製品づくりに関してはコダワリがある彼女たち。良い製品を作ってもしっかりとした経営をしないと利益を生み出すことが出来ないと思った道夫が経営に参加することになったのです。
道夫が入社して初めに取り掛かったのがファミリアの改革でした。鬼軍曹のような厳しい指導で従業員からは反発もあったようですが、道夫が取締役に就任してからの売上は凄まじく伸びていったのです。
ファミリアについて詳しく知りたい方は坂野惇子さんの記事をご覧いただければと思います。
ずっと変わらぬ夫婦愛
仕事に関しては厳しい人でしたが、プライベートの二人を見ると、とても仲の良いご夫婦で愛妻家だったのかなと感じています。
道夫は写真が趣味で出かけるときは必ずカメラを持参してパシャパシャと記念写真を撮っていたとか。惇子が夫の肩に手を添えた一枚、そして夫の愛車の前でポーズをとる惇子。満面の笑みで写っている彼女たちの写真を見れば二人の仲の良さは一目瞭然です。
別れ
平成4年4月15日、道夫は心筋梗塞で倒れた惇子と同じ病院に検査入院。病院で結婚記念日を迎えた二人は病室でケーキカットをしたとか。そして外出許可がおりた道夫は孫の運転で六甲山にドライブに出かけたのですが、急な食事と疲労が重なり寝込んでしまう。翌日は意識不明となり、6月2日に息を引き取ったのです。
享年75歳。ファミリアの発展は彼無くして語ることは出来ません。
惇子さんは夫の死後、雑誌のインタビューで「早く主人のそばに行きたいです」と語っていました。晩年も精力的に活動をしていた彼女ですが、ふと1人になると夫のことを考えていたのかもしれません。