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坂野惇子とファミリアの軌跡
大きな店舗を構えたファミリアの成長は早かった。店舗の販売だけに留まらず、阪急百貨店にも販路を拡大するようになったのですが、百貨店との間でちょっとしたエピソードがあるんです。
最初の交渉でメーカーのロゴを阪急に替えて売りたいという申し入れを惇子はきっぱりと断ったのです。ファミリア以外のロゴなんかありえない。それだけプライドをもって作っているので、そんなことを言うなら申し入れをお断ります、と。結局、ロゴはそのままで売り場に「阪急ファミリアグループ」とすることで決着が付いたようです。
しかし納品初日、阪急の係が製品を乱雑に扱う姿を見た惇子は驚き、やはり商品を大事に扱わない店に預けることは出来ないと突っぱねる。結局、ファミリアが売り場を管理するということで話はまとまりましたが、人を派遣しなければいけない事を考えても、やはり自分たちで丁寧な仕事をしたいと考えたのです。
そしてまたまたトラブル発生!
阪急百貨店にオープンしたファミリアの売り場は順調に売れて品数状態。阪急が指示した納品数では足りなかったのに、売り場担当者は直ぐに商品補充をしてくださいと言ってきたので、またまた惇子はご立腹してしまったのです。
「じゃあショーケースをひとつ減らしてください」
こんな一言を言うのはファミリアくらいでしょう。百貨店の売り場はどの業者も喉から手が出るほど欲しい場所。それを減らすというのだから担当者もびっくりしたのです。そのことは直ぐに阪急の社長の耳に入り、呼び出された彼女は怒られる覚悟で行ったのですが、意外にも褒められてしまった。ショーケースを増やす努力をしてみませんか?きっと成功しますよ。社長の清水とはそれから長い付き合いになったのです。
ショーケースは3台に増え、催事場を使って子供服の特別催事を行うなど阪急での売上も伸びていったのです。
夫・道夫が社長就任
モトヤ靴店の店主・元田が社長を辞任、そして監査役も辞任。大きく人事が動いたことでファミリアは誰かが舵を取らなければいけない。悩んだ末に夫の道夫が佐々木営業部を辞めてファミリアに入社。尾上の計らいで退職ではなく出向扱いとされ、万が一何かあったときはいつでも戻ってきなさいとやさしい言葉を掛けてくれたのです。尾上には夫婦ともに世話になりっぱなしの坂野家。辞めると言った以上は絶対にファミリアを大きくしてみせると誓ったことでしょう。
ちなみに元田は社長を辞任してから取締役を経て監査役も歴任、ずっとファミリアを影で支え続け昭和37年に他界されました。
ヒット商品の裏にはこんなとんでもエピソードがあった!
「日本陶器の食器を2万個発注するって?!」
驚いたのは他でもない社長の道夫。惇子は日本陶器(現:ノリタケ)に可愛らしいイラストを描いたら必ず売れるという。この常識はずれの奇抜さは男性では思いつかない。後にファミリアの定番商品としてずっと売れ続けるヒットアイテムになるとは想像もしなかったことでしょう。
「女性のアイデアを大切に、男女が協力してバランスのとれた経営を」という社長の考えはこの時の出来事が影響しているのかもしれません。
そして60年経った今でも、こぐまのファミちゃんリアちゃんのイラスト食器は売れ続けている殿堂商品です。
その後のファミリアは・・・
昭和27年10月、夫の道夫が社長に就任したことでファミリは大きく変わっていきました。どんぶり勘定、曖昧な経理、主婦たちの利益に対する無関心さを徹底的に改め、鬼軍曹のごとく厳しい指導をしていったのです。
もちろん反発もあったようですが、そのかいあって道夫が取締役に就任した年は売上が倍増。社長に就任した昭和31年に至っては1億円の売上を達成しています。しかし昭和51年には売上一億円を達成していますから、昭和30年台は序章に過ぎなかったわけです。
昭和29年、東京に進出、高島屋で「ファミリア子供服展」開催
この時、惇子は催事計画をレポート用紙40枚にまとめて担当者に送っており、催事の運営・管理など事細かく指示を出したという。異例と言えば異例の出来事ですが、担当者は憤慨するどころか彼女たちのやり方をとにかく吸収したいという気持ちがあったようです。
父の死
昭和32年、惇子が39歳の時に父・八十八が病で倒れた。
仕事を終え、食事を済ませると京都の実家に帰り姉と交代で父の看病を朝までしていたそうです。当然睡眠不足でしたが彼女は父が亡くなるまで続けたという。
享年83歳、手に職をつけることを応援してくれた父。臨終には尾上も立ち会ったそうで、その時にちょっと怖いエピソードがありました。
父親は亡くなる直前、うわ言で「かまどの火が燃えている、蓋を閉めなさい」と何度も言っていたという。何のことか分からないけど惇子は「閉めましたよ」と言うと、安心したかのように眠ったそうです。
後日、火葬場でかまどに棺を入れたところ、火が燃えているのに扉が閉まらず数人がかりでようやく閉めたという。父親が閉めなさいと言ったのはこのことなのでしょうか。
皇室からの注文、美智子妃殿下との再開
昭和34年8月、休日にゴルフを楽しんでいた惇子に高島屋から連絡が入る。内容は美智子妃殿下のご懐妊で出産準備用品の納入を計画している高島屋はファミリア製品をお見せしたいとのこと。
実は創業メンバーの田村光子の次女・安佐子が美智子妃殿下と同級生で昭和34年に坂野家が所有する六甲山荘に遊びに来ていたことがあるんです。その時に惇子はお茶を出したそうなので、「あ~、あの時のお嬢さんね」と思い出したことでしょう。
美智子妃殿下とは久しぶりの再開。しかも惇子をちゃんと覚えていたらしく、
「いつぞやは神戸でお世話になりました」
と言葉を掛けてくれたとか。声をかけてはいけないと言われていたので彼女もびっくり。妃殿下の前での商品説明はさぞ緊張したことでしょう。
その後、皇室から80点ほどの注文があり昭和35年2月23日、無事浩宮様の出産に間に合った。その後も秋篠宮さま、紀宮さまのときもファミリア製品を利用されており、皇室御用達のブランドとして全国に名を轟かせたのです。
娘・光子のおかげ?スヌーピーのぬいぐるみが大ヒット!
ファミリアは自社製品の製造販売だけでなく、品質の良い海外ブランドも積極的に輸入していました。その中で、商品ではないですがキャラクターの版権を取得してぬいぐるみを販売したのですがこれが大ヒット。そう、皆さんご存知の「スヌーピー」です。
娘の光子がアメリカに滞在している時に漫画「ピーナッツ」が流行っていたのですが、光子もこのキャラクターを気に入り、両親に勧めたのです。「確かに可愛い。これなら売れるかもしれない」そう直感した惇子は道夫の承諾を得て昭和45年4月に万博博覧会と同じ時期にぬいぐるみを販売。
当初、月500個の販売を見込んでいたところ、昭和46年には月3000個、昭和48年には年間11万3000個販売する大ヒット商品になったのです。
娘の結婚、夫がファミリア入社
昭和42年3月4日、坂野光子と岡崎晴彦が結婚。後にファミリアの社長になる人です。二人はどこで知り合ったのかというと、六甲山の別荘。夏にはお隣同士になるという関係だったので家族ぐるみの付き合いがあったようです。幼馴染みと結婚したということですね。
日本初の子供服百貨店が銀座にオープン
昭和51年9月23日、銀座ファミリアがオープン。3階建の総売り場面積400坪の大型ショップ。尾上から話が持ち上がったこの案件に対して消極的だった惇子。役員会議を開いても採算が取れないという意見が多いのは当然で、彼女もその1人でした。断るつもりでしたが、阪急の社長・清水と偶然街で出会い、清水も尾上の意見と同じく出店に賛成だった。銀座にお店を出せば宣伝効果も高い、採算は別としてとりあえずやってみようということで子供服の百貨店が誕生したのです。
ちなみに銀座のお店は新しく作った子会社が経営。社長に惇子、店長は娘婿の晴彦が担うことになりました。
経済界大賞受賞
惇子は社団法人ザ・ファッショングループの日本支部長に就任し、昭和56年には会長を歴任。今でこそファッションリーダーと言えばモデルさんを指しますが、当時のファッションリーダーといえば間違いなく彼女でしょう。
また、昭和59年には雑誌「経済界」の「経済界大賞フラワー賞」を受賞。働く女性の地位向上に貢献したと言うことで選ばれたそうです。
夫の死
昭和60年、ファミリアは創立35周年を迎え、道夫と惇子は会長・副会長に就任。娘婿の岡崎晴彦にファミリアを任せたのです。そして昭和63年、尾上の死の悲しみを乗り越え、平成2年に創立40周年、同じ年に道夫と惇子は金婚式を迎えていました。
しかし金婚式の2年後、平成4年4月に74歳の誕生日を迎えた惇子は心筋梗塞で入院。更に道夫も同じ病院に検査入院をすることになり、この年の結婚記念日は病院で祝うことになったのです。
5月には退院出来るほど回復しましたが、不幸は重なるもので惇子は転倒して腰骨と骨盤を骨折してしまう。更に同じ月の5月21日に外出許可が下りた道夫は孫の運転でドライブと久しぶりの美味しい食事を堪能した後、妻が大好きなスズランを摘んで病院の惇子に手渡した。しかし夫の元気な姿がこれで見納めになってしまうとは誰が想像できたでしょうか。
翌日の22日、疲労で寝込んでしまった道夫は次の日には意識不明に。どうやら久しぶりの外出で疲労がたまり、過食で腸閉塞になってしまったのです。そして惇子が見守る中、6月3日に息を引き取ったのです。享年75歳でした。
主人のそばに・・・
平成10年3月31日、80歳を迎えた惇子は会長職を辞任し名誉会長に就任。
この年の雑誌のインタビューで「早く主人のそばに行きたいです」と語っていることから、第一線を退き、家で1人で居るときは、つい夫のことを考えていたのでしょう。
そして平成17年9月24日、家族が見守る中、入院先の病院で心不全でこの世を去りました。享年87歳。夫の元へ旅立ったのです。
思えば、ベビーショップモトヤという小さなお店からスタートし、株式会社ファミリアを設立。主婦4人だった従業員も今では大所帯の企業。品質の良い製品づくり、子育てに無くてはならない存在に、そんな「愛情品質」をモットーに夫婦で支えてきた道夫と惇子。立派に育った息子や孫達があとを継ぎ、安心して任せられると感じた彼女の最期は安らかな顔で眠っていたそうです。
葬儀から約1ヶ月後の10月24日、ホテルオークラで「お別れ会」が執り行われました。花祭壇には美智子妃殿下、皇太子・皇太子妃両殿下、など皇族からの籠花がズラリと並んでいたそうです。