朝ドラ「とと姉ちゃん」では唐沢寿明さんが編集長としてその役を演じることになりました。
主人公の小橋常子とともに「あなたの暮し」創業者メンバーとして、最後まで活躍が見られる重要な人物。
実在のモデルは奇抜なファッションや逸話を多く残した強面の方です。
今回はそんなやり手の編集長にスポットを当ててみたいと思います。
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花森安治の生まれ~幼少時代
1911年10月に神戸市須磨区平田町で
先代から続く貿易商の父と、学校の先生をしていた母の長男として生まれた安治少年。
兄弟は6人、裕福な家庭だったのか、
花森家は宝塚の歌劇を家族で観に行ったり、普段から洋服を着ていたそうです(当時は目珍しい)。
しかし父親は積極的に働くような人間ではなく、むしろあさが来たの新次郎のようなタイプで遊び人。
賭け事に手を出したり、連帯保証人になって財産を失い、挙句の果てに飛び火で家が焼けてしまったので
一家の暮らしは180度変わってしまったのです。安治少年がまだ小学校2年の時の出来事です。
そんなこともあって一番苦労することになったのが母。
6人の子供を育てなければいけないので、
荒物屋や薬局を営む傍ら夜は内職をするという、子供が成長するまで大変苦労されたようです。
高等学校、この頃に編集者になる夢を抱いたのか
かなりレベルの高い学校を希望していたのか高校受験に失敗し、
一年浪人したあと、島根県にある松江高校に入学。
地方の学校と言っても国内にある帝国大学にエスカレーター式に入学出来る学校。
実はこの学校を選んだのは他でもない、数学が免除されるということで、
他の高校よりも入りやすかったという。
神戸から遠く離れた島根へ1人学びに行くことになった安治青年は下宿しながら高校生活を送ることになったのです。
高校時代はその強面からか「鬼瓦」と呼ばれていて後輩からは恐れられていたとか。
かく言う大橋鎮子さんも
「顔が怖いし・・・」
と言っていたので初対面の人は話し掛けづらい存在だったのかもしれません。
詩・小説・スケッチなど学生時代に盛んに行い、他校との弁論大会にも参加した、
ということは文学的・芸術的なセンスだけでなく弁にも自信があったわけですが
高校受験のことを考えるとやっぱり理数系は苦手なのかな?と思われます。
また、高校2年の時に文芸部に入り年2。3回学内で発行される雑誌の編集に携わり
この時が「僕の編集者としての出発点」と本人も語っています。
1930年、高校入学の年に母が急死
内職でお金をためて高校に入れてくれた苦労人の母は38歳という若さで急死。
生前、母から将来のことを聞かれた時に編集の仕事と答えた安治は
母の死に顔を一心不乱にスケッチしていたという。
受け入れられない現実を彼なりに整理しようとしていたのか、
あまり資料がないのでこの時の彼の心情を計り知ることは出来ない。
勉学に勤しまない東京帝大時代
「僕くらい怠け者だった学生もそうはいない」。
松江高校を卒業し、東京帝大文学部の美学美術史学科に入学した彼は
当時、3年で合格できる大学を4年掛けて卒業。
ほとんど授業に出なかった彼は学生時代に何をやっていたのかというと、
帝国大学新聞の編集の仕事、可愛らしい女性と結婚、伊東胡蝶園でアルバイトでした。
ちなみに帝国新聞の仲間に大橋鎮子さんが勤務していた日本読書新聞の編集長・田所太郎がいます。
花森と田所は学生時代から気の知れた仲ということになりますね。
逆玉?学生の花森安治、いいところのお嬢さんと結婚
松江の女性と結婚したということは、もしかして松江高校時代に出会った人なのかと思いきや
どうやら大学に入ってから知り合った人らしい。
東京の女子専門学校に通っていた山内ももよが先生宅を訪れた時に
客としてきていた安治と知り合い、
更に後日ももよが松江に帰省するときに、切符売り場で居合わせたのが彼でした。
彼女の太陽な笑顔に魅せられて惚れてしまった青年は
ももよと交際することになったのですが、家柄を気にする彼女の両親が大反対。
そこで自分ではどうしようもないと思い、帝大の教授に頼み込んで両親を説得してもらい、
1935年10月18日に二人は目出度く結婚したのです。
津野海太郎著書の花森安治伝には彼女の写真が2枚掲載されていますが
どれも愛想の良い明るい笑顔をのぞかせている気立ての良さそうな女性。
彼が惚れてしまうのも無理は無さそうです。
貧乏だった新婚生活
一戸建ての借家を借りて新婚生活をはじめた花森夫婦。
彼は22歳で立派な大人とはいえまだ東京帝大の学生。
収入は商業誌だった「帝国大学新聞」の微々たる給与、これだけでは食べていけないということで
化粧品を扱う伊東胡蝶園でアルバイトを始めることに。
これは後でまたご紹介しますが、このアルバイト経験が「暮しの手帖」に大きく影響されていくのです。
佐野繁次郎との出会い
結婚して1年後に婚姻届を出した花森夫婦にも、その一年後の1937年に待望の女の子・藍生(あおい)が生まれた。
頑張って家庭を守らねば!と思い、大学4年目に伊東胡蝶園でアルバイトをすることになった彼は
宣伝部にいた佐野繁次郎の影響を大きく受けることに。
手書きで崩れた文字をレイアウトする佐野の表紙のデザインは
どちらかと言えばデザインというよりも芸術作品に近い。
ミミズが這ったような文字に目を疑いますが、この大胆なデザインを
花森風に書体をアレンジして自分の物にしている。
そんな型破りな佐野の側で学び、新聞広告のコピーなども任されていた安治青年、
さあこれから!という時に国から召集がかかったのです。
妻と子供を祖国に残し満州へ