花森安治の生涯・身分不釣合いの妻と結婚・満州へ従軍経験あり

満州へ

日中戦争が始まった1937年の翌年、徴兵検査で合格となった安治青年は満州へ従軍することになりましたが
1937年に結核性の肺浸潤でやむを得ず帰国することに。

戦友を残して帰国する申し訳無さ、そして妻への気もちをしたためた従軍手帖が今でも残されています。
ちなみに上官の1人で職業軍人の中尉から

「お前らの命は一銭五厘の値打ちしなかい」

と、召集令状のはがき代に例えて罵倒されたことが印象に残っているという。
代わりはいくらでもいるんだぞ、ということだと思いますが、
これでは士気が上がるはずがありませんよね。

日本に無事戻ることが出来た安治青年ですが、
1943年に再び召集がかかるのです。
しかし年齢も30代になっていた彼は南方戦線に駆り出される目前で取り消され
結局戦地に行かずに訓練に参加しただけで無罪放免となったのです。

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大政翼賛会に入社

話が前後してしまいますが、伊東胡蝶園のバイトをやめて大政翼賛会宣伝部に入社したのが1941年。
給料も飛躍的にアップして生活も安定していたと思いますが
お国のためとは言え「戦争に加担していたことには変わりない」と後に本人は語っています。

翼賛会は終戦の2ヶ月前に解散し、無職になった彼は学生時代からの旧知の仲である
田所太郎が編集長を務める読書新聞で編集の仕事に携わっていたところ
皆さんも御存知の大橋鎮子と出会い彼女たち姉妹とともに「暮しの手帖」を誕生させるのです。

暮しの手帖社ではワンマンだった花森安治

1945年に大橋鎮子と出会い、翌年に「衣裳研究所」を立ち上げ
暮しの手帖の前身だった「スタイルブック」を刊行しましたが
ライバル誌が乱立し、新たに「暮しの手帖」を創刊すること。

詳しくは
「とと姉ちゃん」モデル大橋鎮子の波乱万丈の生涯「おてんば娘が暮しの手帖の社長になるまで」

でご紹介しています。

表紙のデザイン、コンテンツ、広告を一切載せない、決めるのは自分、
そんなワンマン編集長だった彼ですが、それが結果として国民雑誌として大きく成長するわけですから
彼のコダワリは間違っていなかったわけです。

社員全員を集めて会議を開いても議論するのではなく、社員のプランを花森編集長が評価する
という変わった会議もあったとか。ワンマンでとにかく厳しい人だったようなので
仕事がしづらい編集者も中にはいたでしょうね。

自宅が火災で全焼

1966年2月に大田区にあった自宅が全焼。
大切にしていたレコードや書籍、録音テープなど貴重な私財を全て失ってしまったこの出来事。
彼の家にはストーブが5台あり、その内の火災の原因とされる1台が見つかっていないという。

当時、石油ストーブは毛布をかけるのか水をかけるのかという論争が巻き起こっていました。
この火付け役となったのが、もちろん花森さんで、
「石油ストーブの火はバケツの水で消える」と消防庁にけんかを売ったという話が話題になったそうです。
結果として「本当に水で消えた」ので彼の勝利といえますが
自宅が全焼した辛い経験を踏まえての譲れない主張だったのかもしれません。

京都のホテルで倒れる

歳も57歳を迎え、決して健康体とはいえなくなった花森氏。
数人の社員を連れて京都を訪れていた時にホテルで意識を失い倒れたという。

どうやら心筋梗塞で病院に入院かと思われましたが、
本人の意志を尊重し、ホテル療養をすることになり、万全の体制で医師たちが彼を診ていたという。

また、この時一人娘の藍生さんが孫娘を連れてホテルで父の食事を世話することになったとか。
というのもホテルのルームサービスは嫌だとわがままをいう父に仕方なく娘が作ることになったわけですが
これもまあ大変な話です。

ホテルで療養と言っても彼は休んでいたわけでなく
しっかりと仕事をしており、京都まで足を運んできた社員は彼に怒られながら仕事を回していたという。

そんなホテルでの療養生活も2ヶ月で終わり、
普段の生活に戻った彼は大好きな酒もタバコもやめていた。

そして1971年に発刊された著書「一戔五厘の旗」が読売文学賞を受賞し
予想外の受賞に驚いたのは本人。大胆かつストレートな言葉が綴られている本書には
僕達の暮らしを守るためなら企業でも政府でも倒すという力強いメッセージが入っていた。

当時はベトナム戦争が勃発したり、高度成長期に入った日本の企業は
利益重視で庶民の暮らしは度外視することに対しての怒りが込められていたのでしょう。

当時の日本は経済は大きく成長しましたがその代償として環境破壊、人体への影響が深刻な問題でしたからね。
そんな怒りをストレートに表現した結果、評価されたということです。

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心筋梗塞で入院

1977年11月、体調を崩して入院し、翌月12月には一旦自宅に戻り孫達と楽しいひと時を過ごしたようです。
大阪から孫がきてくれたからクリスマスを一緒に過ごしたかったのでしょう。

そして年が明けた1978年1月14日の深夜1時、心筋梗塞でこの世を去った花森安治。66歳。
死の2日目に彼が「みなさん、どうもありがとう」と手を振って見送ってくれたのが印象的と語る大橋鎮子さん。

暮しの手帖社の2階で「お別れ会」を開き、約千人が弔問にきたという。
家族ぐるみの小さな出版社が、大きな会社組織として成長しましたが
彼のコダワリを変えること無く「暮しの手帖」は今でも続いています。

とと姉ちゃんに関する記事を沢山書いています♪目次はこちら