2015年1月からいよいよ舞台は北海道へと移っていきます。
北海道でも人情味あふれる人間ドラマが描かれると思いますが、
その中でもニシン漁師でがんこ親父の森野熊虎が登場しますがモデルはいるのでしょうか。
竹鶴政孝の生涯を書いた書籍を2冊ほど読みましたが、それらしい人物は見つからず・・。
しかし竹鶴はニシンやリンゴ農家とは深い関わりがあり、
書籍では描かれていなくてもリンゴ農家の方との思い出もあったことでしょう。
今回はマッサンの思い出深いニシンとリンゴ農家との深い関わりについてお話します。
(参考:「ひげのウイスキー誕生す」)
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北海道余市はニシン漁とりんご生産が盛んだった
マッサンが北海道に渡ってきた頃は既にニシン漁は衰退していましたが、
明治から大正にかけては豊漁だったそうです。
また、ニシンに並んでりんごの生産も盛んに行われており、
明治時代にはウラジオストクに輸出するほど大きな産業になっていったのですが
ロシア革命の影響でルーブルの下落、輸入禁止になってしまうことに。
ウラジオへの輸出が全体の4分の1を占めていたので、影響はかなり大きいと思いますが、
その後はリンゴだけでなく、梨・ブドウ・あんずなど果樹生産は発展を遂げたようです。
竹鶴政孝とニシンの思い出
実はスコットランドでウイスキー造りを学んでいた時のこと、
実習先のウイスキー蒸留所があるキャンベルタウンはニシン漁が盛んだったのです。
そのため、食卓にはニシンが並んでいたし、朝食はニシンの燻製を欠かさず食べていたといいます。
向こうではニシンの燻製をキッパーズと言い、塩漬けにして燻製にしたニシン。
日本では朝食にシャケやアジの開きを食べますが、スコットランドはニシンが定番のようです。
そんな若い頃にお世話になったニシンと15年ぶりに北海道余市で再開するとは夢にも思わなかったことでしょう。
ちなみに竹鶴が北海道に渡った1930年台は、アワビは高価な食べ物ではなかったようです。
「あんなもの、困った者でなければ食べませんよ。」
と地元旅館の主人が竹鶴に話したそうです。
今では高級という言葉がつくほど贅沢な食べ物で、高いものだと一つ数千円もしますから時代は変わりましたね。
余市のリンゴ農家を助けた?マッサンの心意気が凄い!
マッサンが余市に「大日本果汁株式会社」を設立し、
ウイスキーが軌道に乗るまでの最初の数年は、りんごジュースの製造販売で食いつなぐ計画でした。
ドラマではマッサンがりんごジュース製造のために、農家と交渉しますが、
協力的な態度を見せない農家の主人と一悶着あるようです。
ドラマですから予定調和みたいなものですね。
そこで森野の娘・ハナが働いているのでしょうか?
マッサン夫婦には好意的で、何かと協力する心優しい娘のようです。
さて、
史実では竹鶴が農家からりんごを買い取るときに、
ジュースにするので傷があって売り物にならないものでも全部買い取るからと、地元の農家は大いに助かったと言い、
余市の駅はリンゴを積み込んだ馬車が連なったといいます。
また、竹鶴の凄いところは、リンゴを計量して買い取るのではなく、
農家の申告制にして、言値で買い取ったといいます。
結局、農家が申告した量よりも実際には多く運び込まれたといいますから、
竹鶴の心意気が良い結果をもたらしたといえるでしょう。
逆に買い叩いていたら地元のリンゴ農家と信頼関係を築きあげることは出来ませんので
創業当時から、そうした人間関係の構築を優先する考えを持っていたのでしょう。
北海道余市で念願のウイスキー製造所を立ち上げたマッサン、
もちろん平坦な道ではなく事業が軌道に乗るまで苦難の道が続きます。
そして戦争に突入した日本ではエリーにとって住みにくい状態に。
そんな波乱が2015年1月から「マッサン」で描かれることと思います。。