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フランスへ渡米・・じゃなくて渡仏
当時の日本はまだ徴兵制度があり、二十歳から2年間務めなければいけませんが
運が良いことに背が少々足らない篤蔵は徴兵を免れ、フランスへ向けて出発するのでした。
先ずは福井県にある敦賀から船でウラジオストクへ渡り、そこから長い列車の旅です。
何もかもはじめての経験で戸惑いながらもまっすぐ目的地へ向かわず、
見聞を広げるために多くの都市をまわったそうです。
目的地のフランスへ到着してまずはじめに向かったのはパリにある日本大使館で
これまた兄のおかげというべきか、桐塚先生の紹介状を持参してきたので大使との面会が許されたのです。
大使館は就職斡旋する場所ではないですが、紹介状があるのでそのまま帰すわけにも行かず
大使館に務める料理長の紹介でオテル・マジェスティックという一流ホテルで使ってもらうことになったのです。
オテル・マジェスティックは各国のVIPが利用する超一流のホテルで、
僅かながらの給料ではあったものの、
最高の食材で最高の料理を作る事ができる環境に大変満足したようです。
しかし雀の涙ほどの給料で仕送りはあったものの、ぎりぎりの生活で、
時には大使館の冷蔵庫から拝借することもあったといいます。
すいません、この人泥棒です!!(笑)
そんなひもじい生活をしながら料理の腕を磨き、時には現地の人間と衝突、喧嘩もしばしばあったようです。
とかく日本人はバカにされる世の中ですからね、
篤蔵は背が低く、子供扱いされやすいので、そこは一歩も引かずに張り合った根性はすごいの一言です。
異国の地で偶然の再会
休日のある日、セーヌ川の遊歩道を歩いていると、イーゼルを立てて絵筆を走らせている東洋人に目が止まり
顔を覗いてみると華族会館で一緒に働いていた兄弟子の新太郎だった。
どうやら新太郎はあれから美術学校へは行かずに画塾へ通い、師の勧めでパリに来たらしい。
彼もまた篤蔵と同じで父親の援助で異国の地フランスに足を踏み入れることが出来たのです。
それからちょくちょく二人は一緒に食事をしたり飲みに行ったり、
これまで孤独だった生活に心の支えが出来たと言っていいでしょう。
転機
オテル・マジェスティックで働き始めて2年が経過した頃、
別の職場でも経験を積みたいと考えていた篤蔵にキャフェ・ド・パリにいる友人からの誘いを受け働くことに。
ここでも決して給料は良くないけど、篤蔵の腕が認められ、料理長推薦もあって日本人で初めてとなる
料理人組合員に加入することが出来たのです。
組合員になると技術の証明にになるセルフィティカが発行され、
篤蔵は料理長を補佐するプルミエコミュの称号が与えられました。
こうなると出世は早い。
更に別の職場となるオテル・リッツ(wiki)では瞬く間に給料が上がり、
贅沢に外食してもお釣りが来る生活が出来るようになったのです。
※オテル・リッツはフランス料理界の巨匠・オーギュスト・エスコフィエ(wiki)が設立に関わっています。
大使館から吉報
明治45年、
フランスでの修行も3年目を迎えたある日、
日本大使館の安達峰一郎(wiki)から手紙が届いた。
早速詳しい話を聞いてみると
宮中でご奉仕をしないか?
という話に恐れ多いと初めは断ったものの、
安達参事官の説得で帰国することになったのです。
確かに篤蔵は迷った、フランスでの生活は決して悪くない。
腕も認めてもらい、十分過ぎるくらい給料を貰い、言葉の壁も無くなり、
むしろフランスでの生活が楽しくなってきている。
しかし日本人として天皇の御用を務めるという大変名誉ある仕事を引き受けない訳にはいかない、
ということで慣れはじめた異国の生活に別れの時がやってきたのです・・。
帰国
大正2年3月、
篤蔵はお世話になった料理人仲間や新太郎に別れを告げ、フランスの地を後にし、
日本に無事帰国すると真っ先に実家に顔を出したわけですが、
これではれてようやく故郷に錦を飾ることができたのです。
さて、
宮内庁入りは沙汰を待てとのことで、いつになるかわからないため、
引く手あまたの篤蔵はひとまず東京倶楽部の料理部長をしながら便りを待つのでした。
再婚
篤蔵は東京倶楽部に勤めている間、下宿先として赤坂溜池にある大きな料理屋を経営する
秋沢(実在は秋山)宅にお世話になっていました。
そこの娘・敏子さんと恋仲になりそのままめでたく結婚。
婿養子という形だったので自身の苗字も秋沢(秋山)姓に改めた。
そう言えば10代の頃にふじさんと結婚して、黙って家を出て行ったあの後はどうなったの?
実はふじさんは心配で一度だけ東京に来たことがあるのです。
その時は篤蔵がまだ修行の身だからと武生に帰らせたのですが、
その時に子供を身ごもり残念ながら流産したという知らせに内心ホッとした篤蔵。
まだ養う力がなかったとはいえ、
ヒドくないですか?(笑)
そのおふじさんはというと、篤蔵を諦め、地元の男性とめでたく結婚したそうですが、
罪悪感を抱いていた篤蔵にとってこれまたホッと胸を撫で下ろす出来事でもありました。
天皇の料理番「厨司長」
大膳頭(だいぜんのかみ・だいぜんとう)の福羽逸人(wiki)から厨司の辞令を渡され、
正式に宮中の職員として働くことになったわけですが、
大膳頭以下は様々な役職があり、総勢170名という大所帯の中、
篤蔵は厨司として、更には厨司をまとめる厨司長として天皇の御膳を料理することになったのです。
篤蔵の下で働く厨司達は、
ちょっとフランスに行って修行したからといってこっちの方が年季が違うんじゃ!
と思う者も少なくなく、それでも負けん気だけは強い篤蔵は押されまいと必死だったようです。
ちなみに給料は75円、大卒の会社員と同じくらいです。
初仕事
青島の戦い(wiki)での労をねぎらうため日本とイギリスの指揮官を招き晩餐を開催。
この時に振る舞う料理を任されたのが篤蔵でした。
その時のメニューがこちら
鶏肉のスープ
シタビラメのワイン煮
シギ(鳥)のパイ皮包み
牛ヒレ肉バター焼き
ひな鳥の冷製サラダ
さやいんげんのバター煮
果実入りババロア
(引用元:書籍・天皇の料理番)
実際は全て漢字で書かれているらしく、上記は現代語に直したものになりますが、
日本の西洋料理界では漢字で書くことがしきたりだったようですね。
そんなこんなで天皇の御膳を準備するだけでなく、
海外のVIPが来日した時は篤蔵が腕をふるってフランス料理を提供したわけですが、
コースを決めるのに大変苦労したそうです。
これは本場フランスでも一番頭を悩ませるところで、見た目の豪華さだけでなく
調和とバランスを考え季節のものを取り入れるなど創意工夫が必要なのです。
再びフランスへ
昭和天皇が皇太子の時、ヨーロッパ各国を歴訪した大正9年(書籍では9年と記載)に、
なんと篤蔵もそのお供として同行することになったのです。
久しぶりに務めていたオテル・マジェスティック、キャフェ・ド・パリを訪ね、
新太郎はというと、まだフランスに滞在しており、お世辞にも良いとはいえない生活をしていました。
この渡航は篤蔵にとって大きな収穫があった。
皇太子殿下が招かれたバッキンガム宮殿の調理場を覗かせてもらっただけでなく
7、80年間の公式メニューが記録された本を見せてくれるというのです。
もちろんこれを必死に写して持ち帰ったのは言うまでもありません。
イギリス皇太子来日で日本熱狂
大正11年、皇太子のイギリス訪問に感謝の意を込めてイギリスの皇太子エドワード8世(wiki)が来日。
アメリカの一般人であるウォリス・シンプソン(wiki)と結婚するために王位を捨てた人で有名ですね。
イギリス皇太子滞在中の食事は篤蔵が受け持ち、
これまでの経験を活かした伝統的なフランス料理でもてなしました。
皇太子は篤蔵に感謝の言葉を述べるとともに、勲章を贈ったそうですよ。
妻の死、そして再婚
関東大震災で赤坂にある篤蔵の自宅は全焼してしまい、
桐塚尚吾宅にご厄介になっていたころに妻の敏子は体調を崩し、
寝たきりの生活の後、他界してしまった。
彼女は最後まで夫の短気を心配していましたが、これは篤蔵の父親も同じことを言っていた気がしますね。
性格ですから治らないのは仕方がないですが、今度ばかりは妻の言葉を胸に刻み、心に誓うのでした。
月日が経っても悲しみは消えること無く、思い出しては涙を流す日々が続く篤蔵でしたが
料亭で働く菊という女性と何度か話をするうちに打ち解けあい結婚することに。
この時、篤蔵は42歳子供2人、相手のお菊さんは若干24歳ですが離婚経験ありの女性です。
お菊さんもまた篤蔵の道楽好きには苦労させられたようで、
2、3日家を空けることがあったり、気性の荒さは相変わらずだったようです(笑)
前妻の死で誓ったはずなのに・・・・。
意外な人物と接点
赤坂にある篤蔵の家の隣はなんと作家の吉川英治(wiki)でお互いに気軽に行き来する仲で
更に吉川英治は画家の横山大観(wiki)とも親交があり、篤蔵を入れて3人で食事をすることもあったそうです。
ある日、篤蔵は天皇から授かった金一封を大観に差し出し、絵を描いてほしいと頼んだら快く引き受け、
頂いた絵は自慢気に来客者に見せていたそうです。
戦争、そして戦後
戦争で日本の旗色が悪くなると宮内庁の台所事情も例外なく影響が出始め、
今まで食材を卸してくれた業者は高く買ってくれる闇へ流れ、食材不足に悩まされていました。
しかし厳しい状況下でも裏切ること無く宮内庁に収めてくれた業者の恩は忘れず、
裏切ったものには容赦なく切り捨てた。
篤蔵の仕事に対する考えは厳しく、「また御用させてください。」という
営業まがいの言葉には一切耳を傾けませんでしたが、義理堅い一面も持ちわせていたことは事実のようです。
晩年
本名にてご紹介。
秋山徳蔵は生前、本を何冊か出版しましたが、記念すべき最初の本は昭和30年に出版された「味」でした。
※エスコフィエの翻訳本はもっと早くに出しています。
絵を描くことを趣味としていた秋山は、表紙に彼が得意とするエビが何匹も描かれており、
頼まれれば描いていたようです。
※経済的に余裕が出てきたら道楽で画も描いていたそうです。
そう言えば秋山のエビの絵はエピソードがあって、
日本画家の川合玉堂(wiki)に「私のこのエビの絵はどうでしょうか?」と尋ねたら
「天ぷらにして食ったらうまかろう。」
と評され、秋山を怒らせたという逸話があります。
秋山さんと言えば料理人ですが、趣味でエビを好んで描いていた事や上記のエピソードを踏まえると
文庫本の「味」の表紙からエビが消えてしまったのは、ちょっと残念な気がしますね。
ちなみに友人の吉川英治はこの本の序文に
「この男はいつも、掘りたての新ジャガのような顔をしている」
と、いつもの調子で寄稿しています。
昭和46年3月、
秋山徳蔵は1883年に設立されたフランスの料理アカデミーから日本人初となる名誉会員になり、
昭和47年、体力の衰えを感じ、50年務め上げた司厨長を引退。
そして49年7月、永眠。
福井の片田舎から単身上京し、兄のお陰で就職、若いうちにフランスへ行くことを許され
本場で料理の腕を磨き、帰国後は天皇の料理番として50年務め上げた秋山徳蔵。
誰よりも器用で物覚えがよく、研究熱心、時には道を踏み外すこともあったけど
信念だけは曲げずに貫き通した彼の職人魂はまさに凄いの一言です。
あまりにも波乱でハラハラさせられる彼の人生を要約せずに書いていたら長くなってしまいました、すいません(;´∀`)
最後までお読み頂きありがとうございます。
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