ドラマでは西島秀俊さんが演じることになった小橋竹蔵。
染め物の工場で働く物静かで優しい性格という設定ですが、
主人公が幼い頃に結核で早くに亡くなってしまいます。
「後のことは頼む」と言い残してこの世を去った父の思いを胸に
自分が家族を支えると誓った小橋常子。
では実際にどんな人物だったのか、大橋鎮子さんの自叙伝を元に
ご紹介したいと思います。
もくじ (文字クリックでジャンプ出来ます)
祖父も結核で亡くなっていた
岐阜県大垣市、大橋家の3人兄弟の次男として生まれた父の武雄。
家柄は武士なのか豪商なのかそれとも村役人だったからか分かりませんが
苗字帯刀を許され、たいそう大きな家に住んでいたそうです。
幼いころに父(鎮子の祖父)が結核で亡くなり、
母親と伯父さんに育てられ、
10歳の時に親戚の材木商である大橋谷吉の養子となりました。
東京の深川で子供時代を過ごすことになった父は
府立一中(日比谷高校)を卒業後、先輩の誘いで北海道の大学に入学。
その先輩というのが栃内曽次郎海軍大将の息子の栃内吉彦さん。
(北海道大学の教授を歴任、暮しの手帖にも寄稿されたことがあります)
もちろん、両親は北海道行きを反対しましたが
どうしてもという本人の強い希望で単身で行かせたとか。
大学卒業後は深川に戻り、日本製麻株式会社に勤めることになったのです。
両親の出会い、結婚
母親は京都生まれでしたが北海道に移り住み女学校時代を小樽で過ごしていました。
その後は女子美術大学の前身である女子美術学校に通い、
休みの日に小樽に帰省していたようです。
その時によく出掛けていた病院で父・武雄と出会い、
大正8年5月に東京で結婚することに。
父の仕事の都合で北海道に家族で移り住む
父が日本製麻株式会社の北海道工場で働くことになったので
大橋家は小樽に移り住み、その後は萱野(かやの)、虻田(あぶだ)と
道内でも頻繁に各地の工場を移っていたとか。
と言うのも父親が風邪を引いてからあまり体調が良くならないので
道内でも暖かい虻田で生活をしたほうが良いということで会社が配慮してくれたようです。
肺結核と診断され、東京へ
日に日に父の具合が悪くなるので病院で診察してもらった結果、
肺結核とわかり、やむなく父は会社を退職、家族は上京することになったのです。
鎌倉に良い病院がある
そんな言葉を頼りに鎌倉で療養生活が始まり
基本的には祖母が付き添い、鎮子は学校の帰りに立ち寄って
家族の近況を話すことが日課になっていたようです。
鎌倉での療養生活のかいもなく、改善が見られないことから
従兄弟のすすめで東京の病院に転院。
学校を転々としなければいけない鎮子と妹の晴子は複雑な心境だと思いますが
それでも大好きな父のためならと、常に変わる生活に戸惑いながらも懸命に子供時代を過ごしていたのでしょう。
悲しくも思い出に残る家族との食事
母親は子供たちに結核が移らないように細心の注意を払っていましたが
それは父親との食事の時は特に気を使っていたようです。
「お父さんが箸をつけたものは食べてはダメですよ」
そんな厳しい母の言葉とは対照的に父は娘達に
自分のおかずを食べさせてやりたいという思いがある。
母としては体力をつけて欲しいと1品多く父に出していましたが
そのおかずを父が娘達に分け与えるという心温まる家族の団欒がそこにはありました。
父の最期
昭和5年10月1日、容体が良くないという知らせを受けて家族が病院に駆けつけた時は
すでに死を悟ったのか、父は「母を助けて妹達の面倒を見なさい」と
娘の鎮子に言葉をかけたのを最後に息を引き取りました。
そんな父の言葉があったからか、家族を支えるという気もちが
人一倍強くなったのだと思います。
10月5日、まだ小学5年生だった鎮子が喪主をして無事に葬式は終わったのですが
参列者に配ったお弁当が全て捨てられていた事を知り、今でも決して忘れることのない悲しい思い出だと
大橋鎮子さんは語っています。
昭和初期まで結核は猛威を振るっていましたが、残念ながら現在でも毎年2万人前後の方が発症しています。
ピーク時の10万人以上を考えると激減しましたが、患者数が横ばいなのは気になるところです。
大橋家の話しに戻しますと、結局、祖父も父も結核で亡くなっていることを考えると
当時の死因として肺炎・胃腸炎に並んで多かったのだと改めて感じました。
ちなみに現在は、興味深いことに昔は少なかったガンが一番の死因であることから
環境の変化や欧米化した食生活が原因なのだと考えさせられます。