「とと姉ちゃん」小橋常子のモデルは暮しの手帖の社長さん

大橋鎮子さん、社会人になり様々な経験を経て出版界へ

1937年4月、日本興業銀行に入社し調査課に配属された彼女は
主要新聞の記事の切り抜きを長いことやっていたそうです。

記事を切り抜いて紙に貼る作業は6人の重役分作らなければならず
さらにスピードも要求されていたのでけっこう大変。

仕事に慣れたら、記事の切り抜きを自分なりに工夫して
分かりやすくまとめたら評判が良く褒められたとのこと。

この新聞の切り抜き作業の経験が、のちの「暮しの手帖」の制作に
大いに役立ったと語っています。

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興銀を辞めて半年間の大学生活

調査課の課長が女性職員に勉強会を開いてくれたこと、
改めて学問が足りないことを痛感し、勉強したいという気もちが強くなり
3年働いた興銀を退職、以前抽選で落とされた女子大の家政科に通うことになったのです。

しかし風邪をこじらせてから体調が悪くなり、
一向に良くなる気配がないことから大学生活を断念。
会社をやめてまで入った女子大でしたから非常に悔しかったと思います。

日本読書新聞、入社

昭和16年、女子大をやめた時に丁度「日本読書新聞」が求人を出していたので
面接を受けに行くと二つ返事で「明日から来てください」と言われ
後に小説家となる南條範夫氏の秘書として勤務することになったのです。

※日本読書新聞は1937-1980年まで発刊された新聞。
しばらくして鎮子さんは日本出版文化協会の秘書室勤務になっています。

当時日本は戦争まっただ中で、出版物を自由に発刊することは出来ません。
国の管理下の元、凜い検閲が行われていたのです。
その検閲の統制を行っていたのが日本出版文化協会で
当局の意にそぐわないものは部数を減らされたり、厳しいと本を出せなかったりするわけです。

戦争も末期になり配給制に

1944年、食糧不足で配給制となった日本。
大橋一家も例外ではなく、毎日食事をするという事も困難になってきたのです。

そこで心配をしてくれた父方の祖父がお米を渡すから来なさいと
言ってくれて妹と一緒に岐阜県養老郡まで足を運ぶことに。

リュックいっぱいに貰ったお米と道中に食べるおにぎりを貰った二人。
帰りの列車の中でおにぎりを食べていると、
お腹を空かした周りの人の視線が気になり食べれなくなってしまう。
姉妹で相談して周りの人にも分け与えたそうですが、
この列車での出来事は今でもしっかりと覚えているそうです。

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東京大空襲、終戦

1945年といえば日本にとって忘れられない年です。
空襲は前年から続いていましたが、翌年の1945年は特にひどい年でした。
大橋一家は3月10日の空襲にあい、予め庭に作っておいた防空壕に身を潜めて
空襲が終わるまでじっと耐えていたそうです。

悲しいことに3月10日は鎮子さんと妹の芳子さんの誕生日。
限られた食料の中で母親がなにか作ってくれたそうです。

大橋家が住んでいた大井は空襲の被害が無かったようですが
強制疎開で立ち退きを余儀なくされ、さらに空襲で延焼を防ぐために
住居を取り壊されてしまったのです。
5ヶ月後に戦争は終わるというのに・・・・。
ひどい話ですよね。

花森さんと運命的な出会い、そしてあの本が誕生!