「とと姉ちゃん」小橋常子のモデルは暮しの手帖の社長さん

花森安治さんとの運命的な出会い

女学校を卒業後、興銀で3年働き、日本読書新聞に入社。
しかしこのまま勤め人として働いていても男性のような給料や昇級が
待っているわけではないので「なにかやりたい!」という思いがあったようです。

空襲で焼け野原になった東京、
これからまた家を建てる人がいると思うから材木商はどう?
じゃあミシンがあるから洋裁店は?

色んな事を考えますが、得意なものがない、
じゃあ一体どうしたら良いのかと考えた末に出た結論は
「本を作る仕事がしたい!」でした。

Sponsored Link

日本読書新聞の編集長に

「女の人が読んでくださる本を出版したい」

と相談したら、その時丁度顔を出していた花森安治さんを紹介され
「じゃあ一緒にやろう!」ということになったのです。

実は花森さんは早くに母親を亡くし、親孝行できなかった事が心残りでした。
だから母親思いの鎮子さんに協力したいと考えたのです。
二人が出会ったのは敗戦の年の10月、花森さんが34歳、彼女が25歳の時。

花森さんに声をかけていなかったら
「暮しの手帖」は生まれてなかったかもしれません。
と言うのも広告代理店の会社設立の話があったらしく
声をかけなかったら花森さんは広告代理店の中心メンバーとしてお仕事をしていたかもしれません。

暮しの手帖の前身「スタイルブック」刊行

暮らしに役立つ女性のための本ということで、具体的な方向性も決まりましたが
問題は敗戦後なので取り扱うテーマも限定的です。
都市部では食べ物が不足していましたし、配給制が残っていたので
そんな貧しい中でも着るものから豊かな暮らしを提案したい
ということで先ずは花森さんが得意とするファッションをテーマにした本を出すことに決定したのです。

で、事務所はというと妹が探してくれた銀座にあるビルの一室を借りて
社名は「衣装研究所」として昭和21年創業を開始。
また、妹・晴子の会社関係の方が1万円(現在の価値で約500万円くらい)援助してくれたおかげで
資本金も整い、衣装研究所は、
編集長の花森安治、社長の大橋鎮子、妹の晴子・芳子、知人の横山啓一の5名が
創立メンバーとして決まり、家族のような出版社としてスタートしたのです。

新聞に広告を出したら予想以上に反応が良かった!

「新しい本を売るなら広告を出したほうが良い」

花森さんの案で主要な新聞だけでなく地方の新聞にも
小さくですが広告を出すことになったのです。

たとえ一枚の新しい生地がなくても、もっとあなたは美しくなれる
スタイルブック 定価12円(送料50銭)
少ししか作れません
(引用元:「暮しの手帖と私」)

この新聞広告が功を奏し、
全国各地から書留がどっさりと送られてきて
5人総出で朝から晩まで封筒切りに追われたのです。
まさに嬉しい悲鳴とはこのことですが、鎮子さんはとても大変な出来事だったと語っています。

スタイルブックは出だしから好調で
昭和21年に3冊、翌22年に3冊を発刊。
生地を買わなくても着物からリメイクするという庶民的なアイデアが大当たり。
しかし同じような雑誌がドンドン出てきて、後にスタイルブックの存続に大きく影響してくることになったのです。

同じく昭和22年10月に、かなり気合を入れて「働くひとのスタイルブック」を発刊したのですが
思うように売上は伸びなかったようです。

セミナー講座で資金集め、苦い思い出も

雑誌の売れ行きが良くなくても途中で止める訳にはいかない、
だから資金を確保しなければ!
ということで花森さんが主催する服飾デザイン講座を全国で開き、手応えも満足でしたが
宇都宮で開いた講座だけは辛い思い出となってしまったようです。

実は
「洋裁を知らなくてもすてきな服ができる直線裁ち」

というテーマだったので地元の洋裁学校がチケットを買い占めて会場をガランとさせてしまったのです。
こんなヒドいことをする人間も世の中にいるんだと改めて思いますが
花森さんも鎮子さんともに辛い出来事だったと思います。

「暮しの手帖」誕生

前述したようにスタイルブックが世に出てから、
次々とファッション雑誌が生まれて、スタイルブックが売れなくなってしまいました

「じゃあ何か新しい本を作りましょう!」

ということになり、「暮しの手帖」が誕生したのです。
これまで「衣」だけでしたが「食・住」を加えて
より一層、充実した本にしようと決めたのです。

年間6冊、創刊号は昭和23年9月20日。
ちなみに当時は「美しい暮しの手帖」というタイトルで、第22号で「美しい」を取ったそうです。

創刊号のコンテンツは
・可愛い小物いれ
・直線裁ちのデザイン
・ブラジアのバッドの作り方
・自分で結える髪

自分たちでアイデアを考え、モデルも自分たち。
本当に庶民的で手作りの雑誌の誕生でした。

Sponsored Link

川端康成が二つ返事でOKしてくれた理由

記念すべき創刊号は多数の著名人に寄稿してもらったようですが
その中に小説家の川端康成さんも名を連ねていました。

普通なら断れれるだろうと思いますが、
実は以前、日本読書新聞に努めていた時に鎮子さんが原稿の依頼をしていたんです。
この時は原稿受け取りの期日に行っても「まだ出てきてない」と断られ
それが5回ほど続いた時に、さすがの彼女も先生の前で涙を流してしまい、
先生は慌てて原稿を書いたのだとか。

今となっては良い思い出かと思いますが、
原稿を頂かないと本が出版できないので担当になった彼女はやきもきしていたのでしょう。
それ以来、先生からは「大橋くん」と呼びかわいがってくれたそうです。
そんなエピソードがあったので今回の創刊号の寄稿も二つ返事で引き受けてくれたのです。

家を建てるためのお金を持ち逃げされた?!