「とと姉ちゃん」小橋常子のモデルは暮しの手帖の社長さん

「住まいの手帖」を作るきっかけとなったトンデモ話

終戦目前という時、強制的に取り壊されてしまった大橋家。
発刊した「スタイルブック」が好調だったため、
「新しい家を建てようか」ということになり
親戚・知人から借りて工面した前金を棟梁に渡したら持ち逃げされてしまったのです

悲しいやら恥ずかしいやらで、人にも迷惑を掛けてしまったこの苦い経験もあり
「暮らしの基本はやっぱり住まい」という思いとともに出来たのが
昭和25年別冊「住まいの手帖」です。

建築家や建設企業の協力をえて1年近く議論を重ねて作った渾身の一冊。
戦後間もないので庶民が自分の家を持つということは本当に夢のまた夢でしたが
「いつかステキな家を持ちたい」そんな時に本当に役立つ本として誕生したのです。

そして昭和28年、お世話になった建築家の方に家を建ててもらったそうですが
室内の写真を取りやすくするために二階の床に穴を開けて
真上から撮れるようにしたとか。
自宅も研究室の一つとして大いに活用するこの姿勢が本のクオリティを上げているのでしょうね。

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「第4回菊池寛賞」受賞

日本文学振興会が主催する「菊池寛賞」は過去に川端康成氏、
人物以外では「徹子の部屋」、映画「おくりびと」なども受賞されている
個人・団体問わず文芸・映画で業績をあげたものに贈られる賞です。

副賞として十万円(現在は100万円)が授与されたそうですが
社員全員に万年筆と時計をプレゼントしたそうです。

長期のアメリカ視察

昭和33年4月、日本国内で活躍されているマスコミの方々に
ぜひアメリカの都市を見て欲しいということで大橋鎮子さんもそのメンバーに選ばれ
滞在期間はなんと2ヶ月!編集長の花森さんに相談したら
「ぜひ行って来なさい」と後押しされて行くことになったようです。

昭和30年といえば海外旅行に気軽に行ける時代ではありません。
せいぜい仕事の用事で行くくらいでしょう。
さらに為替レートは1ドル360円の固定だったので円がとても弱かったのです。
日本円ですべて旅費を出していたらとんでもない額になっていたと思います。

ワシントン、ボストン、ニューヨーク・・・
アメリカの都市を次々と視察に周った彼女。
上流階級の家を見せてもらったり、ジョージ・ワシントンの邸宅を拝見したり・・・
とてもステキでオシャレ。日本人が憧れる華やかな装飾は目を見張るばかりですが
残念なのはアメリカの食事が不味かったことでした。

鎮子さんが
「こんなまずいものを毎日食べているのか・・・」

と驚くほど食に関してはあまり発展はしておらず、逆に軽んじられている感が否めなかったようですね。

そしてボストンでは一風変わった光景を目にすることに。
深夜2時だというのにレストランでは女性客1人でご飯を食べている人が異様に多かったそうです。
アルバイトをしている方々が不規則な生活を余儀なくしているという
やはりどこの国も貧困の差はあるんだと思う光景でした。

東京と似ているニューヨークの駅は汚かった

人口密度が高く街中では大勢の人たちが行き交う光景はまさに東京。
女性の洋服は華々しくファッションを楽しんでいる様子。
戦後日本は目覚ましい発展を遂げ、生活様式は徐々に欧米化していきましたが
その過程には西洋人への憧れもあり、ドンドン取り入れようと言う意識が高かったと思います。
視察に行った鎮子さんも大いに刺激を受けて、アメリカ人女性のファッション・生活スタイルなど
取り入れたいと考えたのです。

ただ、そうした華やかさがある一方、
ニューヨークの駅の汚さには愕然としたようです。
列車の乗り心地も悪く戦時中の日本の方がマシだったとか。

ペアレンツ・マガジン賞を受賞

ペアレンツマガジンの編集部を尋ねた彼女。
驚いたのは働く人全員が女性で、編集長ももちろん女性だということ。
そんなペアレンツ社から頂いたのがペアレンツマガジン賞でした。
子供・家庭をテーマに大きく貢献した人に贈られるそうで
例えばウォルトディズニーもこの賞を受賞しています。ちなみに日本人が受賞するのは初めてだったとか。

旅疲れでとうとうダウン

広大なアメリカ大陸を飛行機や電車で移動する疲れと
気疲れからか、10日ほど寝込んでしまった彼女。
診断結果は精神的な面からくる胃潰瘍だとか。
ゆっくり静養するようにと国務省の方がお見舞いに来てくれて気遣ってくれたそうです。

アメリカ旅行で得た「暮しの手帖」に取り入れるべきこと

アメリカで働く女性たちの姿は鎮子さんにとってすごく刺激的でした。

・女性がとても大事にされていること
・暮しの手帖のような商品テストをされてる雑誌があったこと
・本屋さんに行けない人のために定期購読を取り入れること・特集をドンドン作ること

などなどアメリカの積極的な売り込み方法や
ワークスタイルなどは後の「暮しの手帖」に大きく影響されたことと思います。

※雑誌の定期購入はすっかりおなじみになりましたね。
もしかして日本で初めて取り入れたのは暮しの手帖かもしれません。

アメリカに負けない「ふきん」を作ってロングセラーに!

実はアメリカ視察の前に台所で活躍する「ふきん」を見直そう!
ということでアメリカの家庭ではどんなフキンをつかっているのか
お店で売れてる商品など持ち帰ってふきんの研究を開始したのです。

そこで共同開発に協力してくれたのが日東紡でした。
テストにテストを重ねて2年、昭和35年に発売され
累計1億枚販売したベストセラーとなりました。

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楽天シンプルで清潔感のある白フチタイプ日東紡の新しいふきん

・耐久性がある
・吸水力が違う
・しなやかさ
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そんな素晴らしいフキンは発売から今も売れ続けている
ロングセラー商品です。

 

親友の死

朝日新聞のロンドン支社に勤めていた伊藤愛子さんは
昭和30年頃からの親友で原稿をお願いしたこともあったようです。

イギリス在住だったこともあり、本場の紅茶の入れ方など
いろいろ教わったとか。
しかし彼女の自宅にお邪魔したある日、
少し強めの咳をするので、病院へ連れて行くと悪性の腫瘍がみつかったのです。

鎮子さんは「本人に告知しない」事を決めて、
10年間献身的なサポートを続けました。
伊藤さんにはナイショでしたが彼女はなんとなく察していたのでしょう。

伊藤さんいわく
「大橋さん、あなたに会う時だけが幸せでした。だって、あなたは病気のことを一度も話さなかったでしょう」
(引用元:「暮しの手帖とわたし」より)

昭和51年10月にこの世を去った伊藤さんの遺言には
驚くべきことが書いてあったのです。
「六本木の家を譲りたい」
複雑な思いがあると思いますが、結局、暮しの手帖別館という形で使うことになり
展覧会や各種イベントが模様される場所となったのです。
(現在、その建物は無くなっています。)

 

長年のビジネスパートナー・花森安治さん永眠

昭和53年1月14日、心筋梗塞で亡くなった花森さん。
前年から体調が悪くなり入院をされていたのです。

ただ、クリスマスと正月は自宅で過ごしたいという本人の希望を尊重し
一時退院することになりましたが、ゆっくりと休むこと無く
未完成だった号の表紙と原稿の仕上げをされたそうです。
亡くなる2日前の1月12日に暮しの手帖の2世紀52号は無事に完成。
ギリギリまで仕事をされていたということですから本当に凄いの一言です。

生前、花森さんから遺言を載せて欲しいと頼まれていた

どうしても本に載せて欲しかった言葉は、読者の方々への感謝の気もちでした。
長年続けてこれたのも全て読者さん一人一人のおかげ。
30年間の感謝の思いをどうしても読者に伝えたかったのでしょう。

一切妥協をせずにこだわり抜いた彼の姿勢は
価値あるものを読者に届けようという基本理念からであり
それは時には従業員に厳しくなることもあったようですが
彼の亡き後も雑誌づくりの思いは受け継がれているのです。

90歳になっても毎日出社していた元気なおばあちゃん

2010年に出版された自叙伝「暮しの手帖とわたし」を出版したのは
妹の息子の妻の横山泰子さんという方です。
90歳になっても毎日出社して本のアイデアを精力的に探していたとっても元気な方だったそうで
皆から「しずこさん」という愛称で呼ばれていました。

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大橋鎮子さんの性格

思い立ったら直ぐに行動、街中で気になることがあれば
誰にでも声をかけるという積極性は仕事柄染み付いた性格なのでしょう。
また、自分でも認めるほどのおせっかい焼きで
人によっては煙たがられることもあると思いますが、
困っている人を見るとほっとけない優しい女性。

90歳になっても精力的に活動されていましたが
2013年3月、肺炎のため93歳で亡くなってしまいました。

彼女の自叙伝は花森さんが亡くなるまでのお話で
その後についてはまた近いうちにご紹介したいという旨が書かれています。
「下巻」ともいうべき自叙伝の出版は実現しませんでしたが
彼女の仕事に対する熱意や情熱、彼女にとって「暮しの手帖」は人生そのものなんだと、
この本を読めばしっかりと伝わってきます。

戦前から戦時、戦後、激動の日本の暮らしを影で支えてくれた本は
60年以上たった今でも暮らしに役立つ本として大変多くの方に愛読されています。

とと姉ちゃんに関する記事を沢山書いています♪目次はこちら