2017年10月2日から放送されるNHK連続テレビ小説「わろてんか」のヒロイン・藤岡てん。
夫とともに大阪の人を笑わせ、そして日本中を笑いの渦にするエンターテイメントなお話です。
今回はヒロインの藤岡てんのモデルになった吉本興業創業者の妻を徹底紹介したいと思います。
もくじ (文字クリックでジャンプ出来ます)
吉本せいってどんな人?~子供時代から、その生涯を終えるまで~
丁稚奉公に出た子供時代
明治22年12月5日、大阪の天神橋5丁目で米穀商を営む父親・林豊次郎の三女として生まれたせい。
実は戸籍に出生地の記載が無いので正確なところはわからず、出生には諸説ありますが、
明石で生まれたとする説は三男・正之助が明石の呉服屋に奉公に出たことと混同している可能性があるかもしれない。
義務教育を終えたせいは、船場の実業家のところへ奉公に出て、月に1円50銭を稼いでいた。
奉公先でちょっとしたエピソードがあって、
奉公人や女中の食が進んではいけないと近くに漬物樽を置き食事中に悪臭を漂わせていたらしく、たまりかねたせいは、
「皆でお金を出し合って生姜を買おう。刻んで樽の中に入れたニオイが消えるやろ。」
とこれが家老の耳に入りこっぴどく叱られたそうだ。
結婚
明治43年(1910)4月8日、荒物問屋を営む吉本吉次郎と19歳で結婚。
しかし本人が18歳で嫁いだということを語っていたことから結婚前にすでに同棲してた可能性がある。
せいと吉次郎(後に吉兵衛を襲名、通称は泰三)は子宝に恵まれたが病で多くの子を亡くしている。
ここで子供の出産についてまとめてみました。
長女・喜代子は明治43年11月6日に生まれたが10歳で死亡。
明治44年に次女・千代子をもうけたが10日という僅かな命だった。 大正三年1月14日、三女の峯子が生まれる。のちに恵津子と改名。 大正四年4月12日四女・吉子が生まれたが翌年に死亡。 大正五年に待望の長男・泰之助が生まれたが2年で死亡。 大正九年9月3日に五女・幸子が誕生。 大正11年7月6日に六女・邦子が誕生。 大正12年10月26日に次男・泰典が誕生。 |
なぜこれほどまでに死亡率が高かったのか気になって調べてみると、こんな記事が見つかった。
「大正10年における乳幼児死亡率改善」と「後藤新平」~専門知とは何か~
乳幼児の死亡率が以上に高く、その原因の1つとして水道水などの衛生面に問題があったという。抵抗力の低い赤ちゃんが犠牲になったけど、大正10年の乳幼児の死亡者が30万人もいたことに驚きを隠せない。
そんな状況であったことから、吉本家のみの問題ではなく、どこの家庭も子供の成長に神経を尖らせていたことは確かなようです。
夫は遊び人?苦労が耐えなかった新妻
せいの嫁ぎ先である荒物問屋「箸吉」の経営は苦しかったが、夫の吉兵衛、通称・泰三は芸人遊びにうつつをぬかしていたらしいく、ほとんど家にいなかった。
せいが債権者の対応をしていたというのだから驚きです。
そうした頼りない夫と言えば、以前、朝ドラのモデルになった広岡浅子もそうでしたね。晩年になってようやく協力的になった夫が印象的。
泰三は好きが高じて太夫元になり、そのせいで家業が廃業に追い込まれたという逸話がある。
※太夫元は芝居興行の責任者
しかし明治42年、吉本家は立ち退きを命ぜられ大阪城近くに移転することになる。
荒物問屋の老舗として名が通っていた「箸吉」も廃業を余儀なくされたわけですが、そんな大事な時も夫は居なかったらしい。
全く収入が無くなってしまったこの時期、せいは針仕事の内職を始める。
しかし、これだけでは家族が食べていけるわけがないので、寄席のお茶子として働きに出て、これが寄席の経営に乗り出すきっかけになったという話もあるようですが、これは実際に寄席の経営にあたりながらお茶子をしていたことと混同している可能性が高い。
寄席の経営をするきっかけとなったのは、
「芸の世界が好きなら、ご自分で寄席をはじめてはどうですか?」
とせいが泰三に言ったことが始まりでした。
寄席の経営がスタート
明治45年4月、天満天神裏の端席・第二文芸館の経営権を500円で購入。
せいは、おおいに働いたという。
寄席を整理するお茶子の役目を務めたり、汗をかいた芸人の背中を手ぬぐいで拭いてあげたり、芸人の身の回りの世話をしていたらしい。
また、商売の才覚があったのは確かなようで、汗をかきながら寄席を見た客を見て、冷やし飴の販売を思いついたのだが、これが大当たり。
寄席の中でも、あえて甘いものを売らずに辛いものを売ることでラムネの売上本数を伸ばし、客が食べたみかんの皮を漢方薬屋に売りに行ったという。
そうした地道な努力で寄席の経営を支えた妻のせい。
大正2年1月に看板を掲げた吉本興業部は経営を軌道に乗せ大正3年に福島の龍寅館を手に入れる。また、その後も梅田の松井席、天神橋筋5丁目の都座など次々と寄席劇場を傘下におさめていった。
花月の誕生
しかし寄席と言っても手に入れたものはどれも端席。どうしても一流の寄席を手にいれたいと考えていた泰三に転機が訪れたのが金沢席の買収でした。
1万5千円と高額だったが、立地条件の良い金沢席を手に入れることで一流の寄席が欲しいという夢がかなったのである。
また、金沢席の名称を「南地花月」と変更し、傘下にある寄席の名称全てに「花月」を加える。ここでようやく吉本らしい名前が登場しましたね。
そして大正11年8月、大阪の寄席は吉本が手中に収め、まさに吉本王国となったのです。
月給の始まり
花月の看板芸人だった三弁紋右衛門を月給制にして月に500円を支払っていたそうです。当時のサラリーマンの月収が40円だったことからまさに破格の給料でした。
さらに、大阪で有名だった桂春団治を吉本は看板芸人として召し抱えることに成功したのです。
今で言うなら立川談春、柳家小三治あたりでしょうか。
前貸金2万円、月給700円という、これまた破格の高待遇で迎えたということです。
出費は大きかったが、春団治を手に入れた吉本の急成長ぶりは凄まじかった。直営・提携合わせて全国に28軒を持つまでになったのです。
早すぎる夫の死
大正13年、大阪が花月一色に染まったころ、夫の吉兵衛が脳溢血で他界。17年間の結婚生活だった。30代で未亡人となってしまったのです。
吉兵衛が死んで8年経った昭和7年、吉本興業部は吉本興業合名会社と改組。大阪・名古屋・東京、合わせて劇場は47軒を超えていました。
せいが社長に就任し、弟の正之助と弘高が理事を務めたのです。
夫が残した寄席をなんとか残したいと懸命に働いた結果、さらに劇場を増やすことに成功。未亡人でありながら男勝りの経営手腕を発揮したのです。
大阪人気質
「必要なものは惜しげもなく投資をするが、無駄なものには一銭たりとも支払わない」
という考えは、彼女にもあったと思われる。
黒い羽織を身に着けていたせいは、帯の間に10円の札束を忍ばせ、気に入った芸人は気前よく渡していたそうです。
大切な芸人が病気で入院した時は、つきっきりで看病したこともあるという。
また、売れている芸人は貸付を許可することで、吉本から中々抜け出せなくする方法も取っていたとか。
一方、売れない芸人に対しては給料日前にクビにするなど容赦なく切り捨てていたことから、女性として細やかな気配りが出来る一方、経営者として厳しい側面も持ち合わせていたのです。
自分をもプロデュースする
昭和9年2月11日、大阪府から表彰される。
勅定紺綬褒章(ちょくじょうこんじゅほうしょう)という賞で各方面に多額の寄付をしたことが認められたのです。
大阪を手中に収め、莫大な財を得たせいが唯一欲しかったのが名声だったのかもしれない。
昭和13年に大阪を象徴する通天閣を25万円で購入。
通天閣のオーナーになったことで、芸に興味がない人でも吉本せいを知るきっかけになったでしょう。
もちろん、この頃大阪では彼女を知らない人はいないと思いますが・・。
芸人だけでなく、自身をプロデュースすることで、より社会に吉本の存在をアピールしたかったのだと思われます。
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