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吉本興業の創業者・泰三こと吉本吉兵衛はどんな人物だったのでしょうか?
朝ドラ「わろてんか」のモデルになった吉本せいの夫は若くてしてこの世を去りましたが、「演芸」とはほと遠い家業なのになぜ、寄席劇場のオーナーになったのか。
今回は創業者の半生にスポットを当ててみたいと思います。
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荒物問屋の息子として
明治19年(1886)4月5日、上町の本町橋際で荒物問屋「箸吉」を営んでいた吉本家の次男として生まれた吉本吉次郎。
明治43年4月8日に、吉本せいと結婚。結婚前から同棲し、長女の誕生日から察するに、彼女は既に身ごもっていたことになる。
二人の関係が気になるところですが、せいの実家がある天神町の米穀商とも取引があったらしいので、まったく知らない同士の結婚ではなかったと言えます。
彼女が嫁いだ時は日露戦争直後で、折からの不景気も絡み、荒物問屋「箸吉」は貸し倒れが続いていたという。
本名と通称について
吉本家は世帯主が吉兵衛を名乗る習慣があったのでせいの入籍した翌年に吉次郎は父親から吉兵衛を襲名。
しかし、普段は泰三という通称を使っていたので、多くの文献では吉兵衛ではなく通称の泰三と記していますが、戸籍上、泰三となったことはありません。
家業は妻に任せっきりで自分は芸人遊び
家を空けることが多かった泰三は芸人遊びが大好きで、時には舞台に立って演じることもあったとか。
好きが高じて太夫元(演芸などの興行責任者)になり、そのせいで家業である荒物問屋を廃業に追い込んだというエピソードがあるくらい、演芸が好きだった泰三。
妻に家業を任せいたこともあるので、せいが債権者の対応をすることもしばしばあったという。
さらに債権者の対応が悪いと、どこからともなく現れた泰三が、床の間に飾ってあった日本刀を取り出して妻の背中を叩きつけた、というエピソードは、後年せいがよく語っていた話です。
少し話を盛っている可能性がありますけどね・・・。
寄席のオーナーに
家業そっちのけで芸にうつつを抜かしていた泰三に対して、妻のせいが夫に
「芸の世界が好きなら、ご自分で寄席をはじめてはどうですか?」
というアドバイスをしたことで、吉本家は大きく変貌することに。
明治45年4月、天満天神裏の第二文芸館という端席の経営権を500円で購入し、寄席のオーナーとして新たなスタートを切った吉本夫婦。
寄席の経営は、せいのきめ細やかな女性らしいサービスと経営手腕で次々と劇場を増やし、気がつけば大阪を手中に収めるまでに成長した吉本興業部。
そんな急成長を遂げた会社ですが、泰三の身に異変が・・・。
夫の早すぎる死、そして亡くなってわかったこと
寄席の経営が上手くいくと、泰三の遊び癖が始まり、家を空けることが多くなったという。
倒れた時も、妾宅でという噂もあるくらいだから最後まで困った夫です。せいは淋しがり屋で嫉妬心は相当なものだったので、夫が外で何をしているのか気になっていたのは確かかもしれません。
大正13年、脳溢血で34歳という若さでこの世を去った時、多くの劇場を残したが30数万円の借金も抱えていたそうです。