野上潔のモデル尾上清は頭が良いのに勉強嫌いだった?

朝ドラ「べっぴんさん」に第2話から登場した高良健吾演じる野上潔。
坂東営業部の取締役・野上正蔵の息子で将来はゆりと結婚することになりますが、ヒロインを影で支える頼もしい存在です。

そんな潔のモデルとなった人物とはいったいどんな人なのか?史実でも親子で佐々木家と深い関わりを持ち、惇子さんの大恩人でもある人です。

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尾上清ってどんな人?頭が良いのに勉強嫌い

惇子さんの父・八十八が経営する佐々木営業部で働いていたのが清の父・尾上設蔵。20代で支配人となり、やがて一切の経営を任されていましたが、息子の清も父と同じく佐々木営業部でその才覚を遺憾なく発揮し、やがて「レナウン」の社長に就任。

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清は1911年に大阪で生まれ、住吉中学を卒業した後、上京して慶應義塾高等部に進学。高等部の学生時代では横浜で喫茶店を経営するなど10代から商才があったようですが、親の仕送りをデート代に回し学業に打ち込むことなく大学進学は諦めてしまったとか。

そして1933年、大阪に戻り父がいる佐々木営業部に就職。ここからが凄い。入社3ヶ月で主任になり、3年後の1936年には常務取締役に就任するというスピード出世を果たした。もちろん父親が取締役だからではなく、清は実力でのし上がったのです。

ちなみに坂野惇子とは7歳差で清は彼女のことを「お嬢ちゃん」と呼んでいたとか。そんな彼が久しぶりに惇子と再開し意外なアドバイスをしたのです。

 

自分の力で生きなさい

1946年、戦後の政策で資産に重い税を課せられ、更に預金が引き出せず困り果てた惇子は京都にいる父親を訪ねていました。丁度来訪していた清にも相談を持ちかけたのですが、意外な言葉が返ってきたのです。

「お嬢さん、時代は変わりました、これからは自分の力で生きなきゃダメです、働くということはとても良いことですよ」

そんな彼の言葉に続いたのが父親でした。

「清さんの言う通りや、働くことはええことや」

何不自由なく裕福な家庭で生まれ育った惇子にとって予想外の言葉が返ってきてびっくりしましたが、彼のアドバイスを素直に受け止め、いつまでもお嬢さんじゃいられない、おじさんのように働かなくては・・。そう決意したのです。ただ、この時はまだ何をしたら良いのかわからなかったのですが・・。

 

佐々木営業部の再建に乗り出す

佐々木営業部は戦時中に江商という別会社に吸収合併され、尾上は江商に身を置きながら別会社を経営。そして佐々木営業部系列の生き残りである東京編織をサポートしていました。

そんなある日、佐々木八十八から「会いたい」と連絡が入り、自宅を訪問すると、会社の栄光を語るもののそれ以上の事は言わない八十八。しかし佐々木営業部を再建したいという想いを感じ取った尾上は江商に辞表を出し東京編織の再建に乗り出した。そして昭和22年資本金19万5千円で佐々木営業部が復活したのです。

尾上は八十八の長男を社長にしたかったようですが、固辞したためやむなく自分が就任することになったのです。

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ファミリアの銀座進出は尾上の提案から

1976年4月に、尾上は坂野惇子に銀座6丁目のビルの一部が空き店舗になるから出店しないか?と提案。さすがに唐突だったので改めて返事をする事になったのですが、銀座で子供服は売れないという業界内のジンクスもあり社内では反対する声もある。出店を断ったものの、阪急百貨店の清水社長のアドバイスや尾上のプッシュに折れたのが夫の道夫でした。

そして同年9月23日に日本初となる子供服百貨店が銀座に誕生したのです。

ちなみに銀座ファミリアの年間売上高は8億7千万円。尾上が予想していた額よりも遥かに上回っていたのです。宣伝効果があるから出店しようと決めた銀座店ですが、まさかここまで売上を伸ばすとは関係者も予想していなかったでしょう。惇子にとって尾上と清水は頭が上がらない恩人なのです。

そして世代交代が行われたファミリアも1985年に創立35周年を迎え、惇子さんが副会長、夫の道夫が会長に就任。その3年後の1988年に尾上は他界。享年76さいでした。「労働者になりなさい。」彼の言葉が無ければ今のファミリアは存在し無かったかもしれませんね。