竹鶴リマに関して以前にも記事を書かせいて頂きましたが、
今回は、子供時代から成人するまで、どんなふうに過ごしてきたのか、
前回は私生活について具体的にご紹介できなかったので、
家族3人のちょっとしたエピソードなどをご紹介していきたいと思います。
(参考図書:リタの鐘が鳴る、ひげのウィスキー誕生す)
もくじ (文字クリックでジャンプ出来ます)
竹鶴家がリマを養女として迎え入れる
不幸にも流産してしまったリタの症状は、医者いわく「神経性の胎盤剥離」だといい
相当神経をすり減らして生活していたのが分かります。
住み慣れない日本での生活、夫を献身的に支えるリタの体は
心身ともに見えないところで影響していたのかもしれません。
そして時が過ぎ、夫の都合で山崎に引っ越したため、
折角出来た友達とも疎遠になり、寂しい思いをしていたリタ。
その時に乳児院に居たリマを引き取ったのです。
政孝の遠縁にあたる女性の子供で、
マッサンの子供で養子のリマは竹鶴家にとって黒歴史だった?
でご紹介しましたが山口広治・シゲ夫妻の子供・房子でしたね。
リタは乳児院にいるリマの事情を知っていたので、
いつか行ってみたいと、寄付がてら顔を出し、最終的に引き取ったということです。
それから竹鶴家では3人の生活がスタートしたのです。
ニッカ(大日本果汁)に出資した加賀正太郎の妻と交流
大日本果汁は竹鶴、芝川、加賀の3人の出資により実現したわけですが、
その出資者である加賀正太郎の妻とリタは竹鶴が寿屋に勤めている時から交流があったのです。
加賀夫妻は海外渡航経験があることから英語の必要性を感じ、
リタに家庭教師を依頼。
加賀家に訪問するときはリマを抱いて行ったそうですよ。
鳥井信治郎の息子・吉太郎の居候で奇妙な4人生活が始まる
朝ドラ「マッサン」でも吉太郎の居候が描かれましたね。
リタのもとで生きた英会話を習わせたいと鳥井信治郎らいしい考えですが、
吉太郎はまんざらイヤでもなかったらしいです。
そして鳥井信治郎から海外視察の話が出て
竹鶴一家と吉太郎の4人でイギリスへ行くことになったのです。
そう、もちろんリマも連れて。
幼少の頃に海外渡航するリマ
1931年、夫・竹鶴政孝の海外視察に同行したリタとリマ。
リタが34歳の時ですから来日して丁度10年という節目にイギリスへ帰国することが出来たのです。
※ウィキでは1924年にも同行していると記載されていますが注釈が無いので疑問です。書籍「リタの鐘が鳴る」と「ひげのウィスキー誕生す」では詳しく書かれていません。確かにこの年、山崎工場立ち上げの際に粉砕機と濾過器をイギリスに発注していますが、この時政孝が実際にイギリスへ行ったのか、そして同行したのかは不明。更に「リタの鐘がなる」では1931年渡航に「リタにとって11年ぶりのカウン家の食事でした」と書かれてあります。「ひげのウィスキー誕生す」でも書かれていないことから私は行っていないのでは?と判断しています。(その他の書籍で情報がございましたらご一報頂けると助かります。)
イギリスへの渡航の大半は船旅なので、途中でいくつもの港に寄り、マルセイユから陸路で汽車を使いフランスへ、
そこからドーバー海峡を超えてようやくイギリス本国に到着です。
今なら直行便の飛行機を使えば12時間で行けるので、時代は変わりましたね。
そんな1ヶ月以上かかる船旅に幼いリマを連れて行ったのだから大変だったことでしょう。
さらにイギリス本土に到着しても目的地のグラスコーへは何本も乗り継いで行かなければいけないので
当時の海外渡航は時間とお金が膨大にかかることが分かります。
久々の家族の対面
(左から妹ルーシーの子供、リタ、リマ、母のアイダ)
リタはカウン家の重い扉を開けて、何も言わず目の前に居た妹のルーシーと抱き合った。
この時、リマにとってとても長い時間に思えたのでしょう、二人の抱擁をぽか~んと見ていたそうです。
そして感動的な母と子の対面です。
国際結婚に断固反対していた母アイダと会うのは気が進まなかったリタですが、
何も言わず両手を差し出した母の胸に飛び込んだそうです。
長い年月とともに母もようやく理解してくれた、というより、ただただ娘のことが心配で仕方がなかったと思います。
イギリスでの日程
さて、ロングステイとなるイギリスではどんな生活をしていたのでしょうか?
竹鶴政孝と吉太郎は仕事で来ていますので、ウィスキー製造の見学や実習で各地の工場をまわり、
リタは実家に泊まる予定ではありませんでしたが、母のすすめで滞在中は自身の部屋で生活する事になったそうです。
約3ヶ月の間、数年ぶりとなる故郷での生活はどんな思いで過ごしていたのでしょうか?
そしてリタはリマを連れて久しぶりに伯母に会いに行きましたが、
やはり反対していた伯母は良い顔はしなかったようです。
なんせ日本人は野蛮なイメージがあるらしく、心配するアイダを傍らで見ていた彼女もまた許していなかったのです。
それでも日本のおみやげであるシルク製のスカーフを手渡された時は思わず声を上げて喜んだそうですよ。
リタと母アイダ、
この旅行が最後の別れになってしまうなんて誰が想像出来たでしょうか?
リタはその後イギリスへ行くこともなく、アイダもまた日本へ来ることは無かったのです。
リタとリマも北海道余市へ
話は少し飛んで、竹鶴政孝が寿屋を退職し、北海道で大日本果汁株式会社を立ち上げたところまでいきます。
工場立ち上げで先に余市に来ていた政孝の後を追ってリタとリマは夜行列車で青森までいき、
連絡船で北海道へ渡りました。道中、日本語が読めいないリタは
無事夫のところまで行けるのか不安だったと思いますし、何よりもまわりが珍しそうな目で見ていたので、
とても疲れる旅だったことでしょう。
教会通いはかかさず行っていた竹鶴家族
何よりも家族の時間や安息日を大切にしていたリタは、日曜日に少し離れた小樽や
数十キロ離れた札幌の教会まで足を運んでいたそうです。
もちろん夫の政孝とリマを連れて3人でお祈りを捧げに行ったようです。
広島の実家に帰省
大日本果汁の資金振りが厳しい時に竹鶴は広島の実家からもお金を借りていましたが、
ウイスキーが熟成し、ようやく出荷のめどが立ったので、
その報告と墓参りも兼ねてリマを連れて広島に帰ったことがありました。
ということは、リマは一応双方の実家に一度は行った経験があるということですね。
この時代に幼いリマがイギリスへ行ったのは大変珍しいことだったのではないでしょうか。
戦争、そして戦後
戦争中のリタに関しては
スパイ扱いされた竹鶴リタの苦悩・戦時中は特別刑事に監視されていた
でご紹介していますが、この時リマも友達と遊ばなくなったので、学校でいじめられていたのでしょう。
物心がつく頃には母親と血が繋がっていないことが分かり、
更にそのせいで学校でいじめられるストレスはリタに向けられてしまいます。
この母子の関係はリマが高校を卒業して成人しても修復されることはなく、
ふと突然、前触れもなく家を出てしまったそうです。
更に追い打ちを掛けるようにリタの母・アイダの急死の知らせが届き、泣き崩れるリタに掛ける言葉が見つかりません。
体が決して丈夫では無いリタにとって、この続く不幸は精神的、肉体的にもダメージが大きかったことと思います。
もしリマが居れば、竹鶴たけしを養子に迎え入れることはしなかったと思いますし、
リマがニッカウイスキーの2代目として、もしくはリマの夫が会社を盛り立てていたのかもしれません。
リマは皮肉にも金の無心に父親を頼よったこともあるらしく、
関係が修復できたのはリタが亡くなる数年前の出来事だそうです。
リマにとって外国人の母を受け入れるのに時間が必要だったかもしれませんが、あまりにも長過ぎましたね・・・。
余談・リタの鐘が鳴る
書籍「リタの鐘が鳴る」というタイトルは
工場の始業時間・休憩時間・終業時間を知らせる鐘の音です。
時間に厳しいリタにとってまさに天職の仕事と言ってもよいでしょう。
鐘がなると従業員たちは「あっ、リタさんの鐘だ。」と和み、更にこの音色は余市の街にも届いていたそうです。
ちょこちょこ色々読まさせていただいております。凄くよく調べられていて感心いたします。リタさんリマさんは想像以上に精神的苦痛を感じていたのですね。気の毒だったと思います。