「とと姉ちゃん」小橋常子のモデルは暮しの手帖の社長さん

2016年4月からスタートする今作。
前作の時代を引き継ぐかのような絶妙な年代に活躍する女性の物語。

戦前・戦時・戦後、貧しかった日本が徐々に発展を遂げる過程の中で
人々の暮らし「衣・食・住」をテーマに愛される本となった「暮しの手帖」

この本の出版社の社長さんはどんな人なのでしょうか?

自叙伝「暮しの手帖とわたし」を参考にまとめてみました。
ドラマの参考資料になればと思います。

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大橋鎮子のおてんばだった子供時代

父と母の運命的な出会い

1920年3月10日、材木商の父・大橋武雄と母・久子の娘として生まれた彼女。
父親は自然豊かな岐阜県大垣市生まれでしたが祖父が結核で早くに亡くなったため、
東京深川で材木商を営む従兄弟の大橋家の養子になったのです。

鎮子も小学生の頃、父親の生まれ故郷に遊びに行ったことがあるとか。
で、気になるのが父と北海道出身の母がどこで出会ったのか、ですよね。

実は府立一中(現・日比谷高校)の先輩だった栃内吉彦さんの誘いで
学生時代に北海道へ移り住んでいたのです。
北海道帝国大学(現・北大)を卒業後は東京に戻ってきています。

「北海道はいいところだぞ」

この栩内さんの親父さんが海軍大将だった栃内曽次郎氏
吉彦さんとお孫さんともに北大の教授を歴任されています。
鎮子さんのお父さんは凄い方がお知り合いだったんですね。

そして鎮子さんの母親はというと、
はじめから北海道に居たわけではなく、実は京都で生まれ育ち、
小樽に移り住み、高等女学校を卒業してから上京したようです。

で、学生時代、慣れ親しんだ小樽に暇を見つけては帰っていたようで
その時に父親と出会い大正8年5月に結婚したということです。

お互いに生まれ育った場所ではなく、遠い北国で出会った両親。
栃内さんの誘いがなければ両親の結婚が無かった事を考えると
なんだか運命を感じずにいられませんね。

北海道で元気よく育つ

父親の会社の都合で北海道に移り住むことになった鎮子。
何だかんだで北海道に縁がありますね。

幼少時代、自叙伝で「稚すぎてあまり覚えていない」と
語っていますが、小学生の頃は川で遊んだり四つ葉のクローバーを探したり
時には牧場の柵の中に入ってあそんだりと、かなりのおてんば娘だったとか。

しかも男女数人のグループのガキ大将で怖いもの知らずの性格。
おてんばといえば朝ドラの名物?今回も初回から楽しめそうですね。

父親の体調不良で鎌倉へ

大正15年4月、肺結核と診断されてしまった父親は会社を退職し
一家は東京の鎌倉に移り住むことになり、北海道とは違う環境になかなか慣れなかった鎮子さん。

東京では小学校を2回ほど転校し、その間は病院にいる父親の見舞いが日課だったようです。
それでも一向に良くならない父親の病気。
今でもしっかりと記憶に残っているのがそんな父親との食事風景。
結核なので

「お父さんがお箸をつけたものは食べてはダメ」

と厳しく母親に言われたそうですが当時は幼かったから
意味がわからず、父親だけ一品余分にあるので
それを妹達と一緒に欲しがっていたそうです。

滋養になるからと一品こしらえる母、
可愛らしい娘達に分け与えたい父、

嬉しくも悲しい一家だんらんの食事風景は何年時が過ぎようとも
決して忘れることはない記憶なのでしょう。

鎮子さんは病床の父にお菓子が入っていた箱に芋版を押して「紙くずいれ」としてプレゼントしたそうですが
父親は亡くなるまで大切にもっていたそうです。

家族の最後の思い出

良い病院があるとのことで従兄弟のすすめで東京に移り住むことになった大橋家。
落ち着くまで父親は郷里の岐阜県でゆっくりと静養してもらい
学校が夏休みの時に家族で見舞いに行った時に父親も含めて家族で養老の滝を見に行ったことが
忘れられない思い出だと語る鎮子さん。

Kikuhiko Mizusaki
Kikuhiko Mizusaki

(出典:ウィキペディア)

※岐阜県養老郡養老町にある「養老の滝」は「日本の滝百選」「名水百選」に選ばれた場所です。

父の死

病院にいる父の容体が悪化して家族が急いで駆けつけると、
父親は悟ったかのように

「お母さんを助けて、妹達の面倒を見てあげなさい」

と長女である鎮子に後を託すのでした。
母は泣き叫び、意外と冷静だった彼女は、

「自分がしっかりしなければ」

家族を守っていかなければと強い決意を抱くのでした。

そして父の葬儀は母親ではなく、小学5年生の彼女が喪主を担当し
大勢の前で挨拶をされたそうです。

葬式は無事終わったそうですが、
出席された方に配ったお弁当が全て捨てられていた事を知り
とても悲しい気持ちになった事を今でも鮮明に覚えているようです。
結局、父親が肺結核だったことから”伝染るかもしれない”と皆は思ったのでしょう。
小学5年生の彼女の胸に深く刻まれた悲しい出来事でした。

 

勉強はまあまあ?健康的な生活をしていた高校時代

昭和7年4月、東京府立第六高等女学校(東京都立三田高等学校)に入学した鎮子さん。
実は日本女子大付属を最初に受けたのですが筆記・面接は通ったのに抽選で落ちたらしく
次は与謝野晶子が創設した御茶の水文化学院を受験。
面接では与謝野氏もいらっしゃったそうで、無事合格したそうですが
結局、母と担任の強い勧めで府立第六に通うことになったのです。

しかしこの第六という学校は世間からは

「あの高校、勉強しないで体操ばかりしている・・。」

なんて思われていましたが無理もありません。
一週間の体操に割り当てられる時間は約五時間、
その殆どは「とにかく歩く!」ことでした。健康的ですね。

月に一度は12キロほど歩いたり
年に二度は40キロ歩くというヘビーな行事がありますが
もちろん途中でリアタイヤして電車で帰ってもOK!
健康的な教育を推進していた校長のアイデアだそうです。

学生時代に歯磨き粉の製造・販売?!

歯槽膿漏だった母は陸軍第一病院に勤務する軍医に
歯磨き粉の作り方を教えてもらい、材料を揃えて自宅で作ったそうです
主な材料は

・薬用石鹸
・グリセリン
・ミント

その他細かなものも混ぜ合わせて手作りの歯磨き粉が完成し
毎日磨くことで母親の歯槽膿漏も治っていったそうです。

そんな話を同級生にしたら評判がよく、

「作って売ったら歯槽膿漏を患っている人たちが助かるんじゃない?」

と言われて家族でやってみよう!ということになったのです。
この時、鎮子さんはまだ14歳、少しでも家計の足しになれば!という気もちだったのでしょう。

しかし何かを販売するというのはそう簡単なものではありません。
祖父の助けもあり歯磨き粉を製造する器材を用意して、何とかチューブ入りの歯磨き粉が誕生したのですが・・・
大失敗に終わったようです。

歯磨き粉を入れたチューブが破裂して、部屋中飛び散っていたとか。
結局、陶器製の入れ物に入れて販売する
という形に収まり、商品名は大橋のO、鎮子のCで「オーシー歯磨き」と命名。

しかし本格的な潜像販売には至らず、知り合いが買ってくれる程度の商売に落ち着いたようですね。

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卒業・そして就職

昭和12年3月、無事女学校を卒業した鎮子さん。
当時、女性が女学校を出たら、師範学校に入るか、洋裁などを習うか
かなり限られた進路でした。

彼女は「学ぶ」というよりも家族を養っていかなければいけない
という気もちが強かったので親戚のつてで日本興業銀行に就職が決まり
「調査課」に配属されたのです。

ちなみに彼女が卒業した1936年前後は歴史が大きく動く年。
2.26事件や虚構橋事件、日中戦争など日本は戦争という暗黒の時代へ突入するのです。

卒業式の時に母方の祖父がわざわざ小樽から掛けてけてくれて
式の日には男泣きをしてくれた祖父。

そんな優しかった祖父も日本興業銀行に就職が決まった矢先に
安心したのか、脳溢血で亡くなってしまったのです。

早くに父親を亡くしていたので、何かと気にかけてくれた祖父。
鎮子さんにとっておじいちゃんでもあり、父親だったのかもしれませんね。

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