チキンラーメンやカップヌードルの生みの親として知られる日清食品の創業者・安藤百福。
安藤氏は家族に関してあまり多くを語りませんでしたが、妻と子供がいてその子供が日清食品の代表を務めていることは周知の事実。
しかし、妻の仁子さん以外に2人の台湾人女性と結婚して、それぞれ子供をもうけていたことはあまり知られていません。
今回はそんな知られざる百福氏の結婚事情についてのお話です。
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10代で一人目の女性と結婚
百福は台湾で、父・呉玉、母・千緑の3男として生まれる。幼い頃に両親を亡くし、義務教育を卒業後、祖父の呉服屋を手伝い、程なくして図書館の司書として2年間勤務。司書の時に結婚したのが呉黄梅さんという女性でした。
この時、百福は若干18歳。両親を早くに亡くしたので家族が欲しくて早婚かと思いましたが、実は黄梅さんは将来の息子の婚約者として早くから呉家に迎え入れていた童養媳(どうようせき)トンヤンシーでした。
童養媳は幼い頃に養女として迎え入れ、結婚適齢期になると息子と結婚。それまでは世話係として、もらわれた家で仕事をするようです。息子が居ない家庭も生まれることを前提に童養媳を迎えることもあるとか。
二人の間に男児の宏寿さんが誕生。百福は黄梅さんを台湾に残し、宏寿さんを連れて日本へ渡ったのです。宏寿さんの話によると、二番目の女性を日本へ連れて行くので黄梅さんを台湾に残したのではと語っています。
二人目の女性も台湾人
百福が日本へ渡った時、なぜかもう一人の女性・呉金鶯さんと結婚し2男1女をもうけていました。
台湾は1930年までは一夫多妻制が認められていたので30年までに結婚していたのかと思いきや、金鶯さんを「妾」として戸籍上に登録していたようです。※一夫多妻制が廃止されても戸籍上に「妾」とするのは認められていました。
金鶯さんと子供たちを連れて日本へ渡りましたが、後に金鶯さんと別れてしまい、彼女は子供を連れて台湾へ戻ってしまいました。
日本には宏寿さんだけが残り、後に結婚する安藤仁子さんが実の子たちと一緒に育てました。
3人目の女性・仁子さんと結婚
1945年、丁度日本が終戦を迎える年に大阪倶楽部で受付をしていた安藤仁子さんと結婚。
この時にどうやら黄梅さんとの戸籍を「妾」にして仁子さんを本妻にしたようです。仁子さんとの間に宏基さんと明美さんが誕生。宏基さんは1985年に37歳で日清食品の代表取締役社長に就任しています。
ちなみに百福にとって長男である宏寿さんを最初の取締役社長に任命しましたが、経営方針で対立して2年で退任してしまったとか。
一説には役員から反対も有ったからという話もありますが、一応長兄を先に社長に就任させた百福の親心なのでしょうか。それでも経営に関しては絶対に譲れない部分があったのでしょうね。現社長の宏基さんとも親子喧嘩のエピソードがあります。
ドン引きですが仕方がない結婚事情
正直なところ、こんな話を聞かされてしまうと「信じられない・・・」と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし1930年までは台湾で一夫多妻制が認められており、祖父や父親も妻以外の女性と結婚、若しくは「妾」という関係の女性が居たかもしれませんし、幼い頃からそうした文化で育ち、不特定多数の女性と結婚して子孫を残すという考え方が当たり前だったのかもしれません。昔の日本もそうでしたからね。