朝ドラ「まんぷく」のモデル安藤仁子の生い立ちと生涯

2018年10月にNHKで放送スタートする連続テレビ小説「まんぷく」のモデルとなった安藤仁子(あんどうまさこ)さんについてまとめてみました。

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安藤仁子の生涯

(出典:https://www.nippon.com/)

インスタントラーメンを開発した安藤百福さんの妻として、夫を支え続けた彼女。どんな人物だったのか見てみましょう

生まれ

1917年(大正6年)8月16日、福島県二本松市で生まれた安藤仁子さん。

二本松神社の神職の一族で、名高い家柄だったようです。父親の安藤重信は土木技師という専門職でダム建設の設計にも関わったことがある立派な父親でした。

しかし、そんな父親も早くに亡くし、彼女が二本松市で暮らしていた時期は短かったようです。その後は、福島を離れ、母親とともに大阪で暮らす事になったのです。

出会い、そして結婚

高等女学校を卒業した彼女は大阪市中央区にある「大阪倶楽部」の受付の仕事に就く。大阪倶楽部はバロック建築のような洋館風の建物で、社交の場として利用されており、今でも機能しています。

倶楽部の会員だった百福が彼女を気に入り、プロポーズ。終戦の年だった1945年(昭和20年)、歴史の転換点とも言えるこの年に仁子さんは結婚を了承。(ちなみに結婚は終戦前です)

式は京都の平安神宮で執り行われたそうです。

慌ただしい新婚生活

夫婦は大阪府吹田市千里山で新婚生活をスタート。育児は全て君に任せると言った関白宣言も彼女は予想していたのでしょうか。

それよりも千里山の新婚生活は戦争の影響で長くは続かず、空襲が激しくなる1945年の3月には兵庫県西部にある上郡町へ疎開していました。

そして8月15日の終戦を機に疎開先を引き払い泉大津市に新居を構えて新しい生活が始まったのです。

泉大津市の生活

大阪の南西部、堺市の南に位置する泉大津市で百福は製塩事業を始めました。と言っても街に溢れる若者をなんとかしようと、利益は度外視で社会貢献活動という側面が大きかったようです。

ここでは仁子さんにとって慌ただしい毎日でしたが、一緒に暮らす若者達の世話や眼の前に広がる海で子供と一緒に海水浴を楽しんだりと、充実した生活を送っていました。

若者の中には仁子さんに恋愛相談するなど頼れる母親のような存在だったとか。

安藤仁子さん待望の男の子が誕生

待望の男の子・宏基(こうき)が1947年に誕生。のちの日清食品ホールディングスの社長に就任する人物です。

自宅から歩いてすぐにある海水浴場に宏基を連れて家族で良くでかけたという。ちなみに仁子さんは泳ぎが得意だったとか。おしとやかなイメージがありますが、学生時代は快活でスポーツを楽しんでいたかもしれません。

脱税容疑で夫が逮捕、そして収監

1948年の12月、百福は製塩事業で若者に支払っていた給料が問題視され脱税容疑で逮捕されてしまった。

製塩事業は経営として成り立っておらず、給料というよりも小遣いという感覚で渡していたので、申告しなかったようです。

この時、住宅・その他の不動産など財産は没収され、家族は泉大津市の家を追い出されて、池田市に移ったのです。

更に百福は財産没収だけでなく4年の懲役を科せられ、東京にある巣鴨拘置所へと送られてしまう。

仁子さんは一ヶ月に一回、面会のために東京の拘置所に出掛けるのですが、これが大変でした。

国鉄で片道14時間、直角の椅子に座っての移動ですから披露は溜まるばかり。幼い宏基を連れて通っていたそうですが、この時期に長女の明美を出産し、赤子と子供を連れて面会に訪れていたのですから大したものです。

家族総出でチキンラーメンの製造

4年の懲役でしたが、2年で出所する事ができた百福は、借家の横にほったて小屋を作りインスタントラーメンの開発に没頭。実は出所後に信用組合の理事長に就任しましたが、経営が破綻。責任を取る形で百福は私財を投げ出して補償に当てたのです。

無一文になった百福は背水の陣でラーメンの研究開発を続けていました。全く収入がなかったので、仁子さんもさぞや心配だったことでしょう。

完成したチキンラーメンは家族総出で製造しますが、1日の生産量は400袋が限界。そこで倉庫を借りて生産体制を強化したことで1日の生産数は6000ケース生産出来るまでになったのです。(1ケースあたり30袋)

この頃、人を雇う余裕が無かったので、仁子さんは家事育児をしながら工場へ通い仕事を手伝っていました。

で、工場から帰る途中、友人と会い、こんな事を聞かれたのです↓

夫の仕事を聞かれて

「旦那さんは今何をされてるんですか?」

「ラーメン屋さんです」

そう言われた友人が想像したのはおそらく屋台のラーメンでしょう。実業家として名を馳せた人が今はラーメン屋さんとは・・・。

友人に同情されたことは言うまでもありませんが、なぜ彼女は誤解を招くようなことを言ったのか?適当にはぐらかすことも出来たのに、インスタントラーメンにかける夫の情熱と、チキンラーメンがいずれ全国に名を轟かせることを信じていたからなのか。

仁子は友人に「主人は必ずビール会社のように大きくなる」と断言。そんなエピソードが残っていたのです。

似た者同士の親子喧嘩

日清食品も大手の仲間入りを果たし、百福も70歳を迎えたことで、世代交代を考える年齢。

息子の宏基が社長に・・・と言いたいところですが、実は台湾人女性との間に出来た宏寿という息子がいたのです。

腹違いの長男・宏寿が社長に就任しましたが、百福と意見衝突して2年で退任。その後に宏基が3代目の社長に就任しますが、彼も我が強く父親の百福と親子喧嘩は頻繁にあったようです。

そんな親子喧嘩のとばっちりを受けるのが妻で母親の仁子さん。

何時間も延々と喧嘩を聞かされる仁子さんは「いい加減にして!」と怒って一人寝室へ行ってしまうこともしばしば。場外で異変が起これば当事者も冷静になるはず。

親子は一旦冷戦状態となり、その時は収まるのですが、2代目の宏寿さんがたった2年で退任した理由も分かる気がしますね・・・。

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夫婦の最期

2007年1月5日、夫の異変に気づいた仁子さんは医者を呼び、いつもの風邪だと思っていました。しかし、点滴をしていた時、苦しくなった百福は「点滴を止めてくれ」といい、「睡眠薬が飲みたい」と言ったのを最後に静かに息を引き取ったそうです。

満96歳、食文化を大きく変えた夫の生涯。影で支えてきた妻の仁子さんも3年後の2010年3月17日、世間に知られること亡く、静かにその生涯を終えていました。

安藤仁子はどんな性格だったのか

様々な事業に挑戦してきた夫・百福に意見することなく、ただ見守っていた彼女。チャレンジ精神の高い夫に驚かされることもありましたが、妻としての役割をしっかりと果たし、夫の事業に反対することなく、応援し支えてきた仁子さん。

晩年、彼女がよく通っていたという病院のドクターの話では、「おとなしくて温厚そうな奥さん」という印象だったそうです。

また、百福が製塩事業をしていた時、大勢の若者を寄宿させていましたが、食事の世話を切り盛りしていたのが妻の仁子さんです。

彼女は毎日台所に立って、さぞや大変で愚痴の一つでもこぼしているのではと思いきや、そうでもなかったようです。

美味しそうに食べる青年たちを見て微笑ましく思っていた彼女。”世話好き”だったんですね。

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さすがの彼女も激怒したエピソード

これは戦後、食糧不足の時に百福が寝室で行ったある実験で妻が激怒したお話です。

食糧不足だった当時、溜池に繁殖していた食用ガエルをつかい、深夜に圧力釜を使って栄養分を抽出しようとした時、突然爆発して煮汁が部屋中に飛び散ったのです。

深夜だったこともあり、その衝撃音は凄まじく、飛び起きた仁子さんは百福に、

「台所でやってください!」と流石に怒ってしまったとか。無理もないですよね。日中ならともかく、深夜に実験をして近所迷惑もいいところ。

この後、カエルの煮汁が飛び散った部屋を片付けなければいけないと思うと、同情しますね。