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念願の加島銀行設立
この頃にはさすがの信五郎も落ち着いたのか
経営に参加するようになり、
後に紡績工場の経営者として活躍するようになります。
そして明治21年1月、
慎重に準備を重ねてきた浅子はようやく銀行設立に漕ぎ着けた。
初代頭取は信五郎の弟・正秋が就任。
ちなみに場所は加賀屋の屋敷あとで、
そのとなりには綿花を輸入する貿易会社・広岡商店を構えた。
なんと浅子は銀行設立だけじゃなく、
紡績事業が盛んに行われる状況=ビジネスチャンスと捉え
生糸を紡ぐ綿花の輸入に目を向けたのです。
危機的状況にあった加島屋が
今では飛ぶ鳥を落とす勢いで多角経営に乗り出し、
業績をV字回復したのは、やはり浅子の存在が大きい。
銀行、商店ともに経営は順調で全国に支店を増やし
多忙な毎日を過ごしていた彼女ですが
遠い九州の加賀鉱山も月に1、2度は必ず足を運んだという。
更に、実業家として全国に名が知られるようになると
メディアからの問い合わせも多くなり、
様々な雑誌に寄稿した。
女性軽視の世の中を変えていくという
彼女の信念は全国の女性達に勇気と希望を与え
女性の社会進出に大きく貢献していくのです。
女子大学創設に尽力
実は女子大学の創設は浅子が発案したわけじゃなく
梅花女学校の校長をしていた成瀬仁蔵が
浅子に話を持ちかけたことが始まりなのです。
とにかく彼に言わせると日本の女子教育に関しては
野蛮国に等しいほどお粗末だという。
確かに当時の日本は女性が学べる環境がとても少なく
働き口といえば「女工」など体力勝負の仕事ばかりで後は嫁ぐだけ。
浅子自身も幼いころは
「女子は学問してはあかん」
と言われ不満を抱いてたひとりです。
成瀬の考えに賛同し、資金面と女子教育の理解を得るために
自身の人脈を最大限に活かし、創設に尽力。
更に、
三井から目白台の別荘地5500坪が寄贈されたことで
学校の建設地も決まり、明治34年4月、
本邦初となる女子高等教育機関、日本女子大学校が開学されたのです。
日本女子大学の創設者といえば、成瀬仁蔵の名前が挙がりますが
実は浅子の存在が非常に大きがったことが伺えます。
ちなみに彼女は初代総理大臣の伊藤博文と面識が合ったので
「まずトップをおさえれば、あとはスムーズに行くはずや」
この要領の良さ、そして幅広い人脈のおかげで資金調達に成功したのです。
恐慌で加島銀行が危機?
同じ大阪で銀行経営していたライバルが
倒産の危機という噂が流れたことで、
「加島銀行も危ない?!」と思った預金者が店頭に詰めかけた。
これって前述した銀目廃止とよく似てませんか?
義父が詰めかけた預金者に「払っておやりなさい」と
言っていたのをふと思い出した浅子は、
皆の反対を押し切って小口預金者の対応をしたのです。
この時、浅子は秘策があった、
小口預金者が引き出す程度ならまだ耐えられる。
大学設立に協力してくれた友人がいて
大口の彼らに預金を引き出さないようお願いすれば問題ないかと。
浅子は伊藤伯爵夫人、大隈伯爵夫人など、
著名人の妻達に預金をそのままにするよう話を持ちかけましたが、
予想とは裏腹に彼女らもまた「加島銀行倒産」を恐れていました。
いよいよダメか・・・
そんな時にご教授願ったのが大学設立でお世話になった渋沢栄一。
渋沢の助言で心なしかホッとした浅子に朗報が飛び込んできた。
渋沢が言っていたように政府の救済処置がなされることになったのです。
こうなると預金者は、手のひらを返したようにまた銀行を利用する。
とりあえずは危機を逃れた出来事でした。
生命保険会社設立
実は以前から朝日生命(現在の朝日生命とは別)をほそぼそと
やっていましたが、赤字でテコ入れをする必要があり、
浅子が考え抜いた末に導き出したのは合併だった。
同業社同士で顧客を奪い合うよりも
体力を付けてお互いの長所を活かした商品を展開していくほうがずっとよい。
もちろんグループから反対意見も合ったし
声をかけた同業者がすんなりOKを出すわけはないですが
浅子が一人一人説得して合併の利点を説き、
少しずつ賛成者を増やしていったのです。
そして目出度く、
「朝日生命」「北海生命」「護国生命」の3社が手を結び
「大同生命」が誕生したのです。
女性の地位向上に大きく貢献
女子大設立に大きく貢献した浅子の夢は女性政治家の誕生と
女性が政治に参加できる世の中を作ること。
彼女の考えはしっかりと受け継がれ
のちに女性解放運動や婦人参政権運動など
浅子が理想とする世の中に一歩ずつ近づいていったのは
彼女を母のように慕っていた女性達の活躍も大きいからです。
実業家、そして女性が活躍出来る社会づくりに
全力で取り組んだ広岡浅子女史。
しかし、
何十年と胸の腫瘍をそのままにして、
違和感を覚えながらも働いて働いて休みなく働いて、
気がつけば大きく腫れた片方の乳房の腫瘍は一刻も早く摘出しなければいけない状態だったのです。
手術は無事成功し、回復に向かった彼女は、
以前よりもあくせく働くことはせず、自分が身を引くこと、
娘の夫にあとを継がせることも考えるようになりました。
大正8年1月14日、
かぞえで71歳の時、皆に惜しまれながらこの世を去った浅子。
最後の一言は、事業所全てを順に言い終えた後に「バンザイ!」と言ったそうです。
常に仕事と向き合い、余暇を楽しむ時間などほとんど無かったであろう彼女の人生。
根っからの商売人気質だということはわかりますが
経営危機を何度も経験したからこそ、
「儲けても甘んじない」
「備えがないと次へ繋げれない」
そんな気持ちが強かったのだと思います。
先見の明があり、ビジネスチャンスを逃すこと無く
リスクを恐れない彼女はまさに起業家そのもの。
しかし、それも周りに理解者がいればこそだと思いますが
夫や義父に可愛がられて経営に参加することが出来る環境も良かったと思う。
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「あさが来た」の原作小説は一読の価値あり
まさに波乱万丈な人生を歩んできた数々のエピソードは
架空の物語よりも面白いし、
現在の女性の地位の礎を築き上げた彼女を知ることは良い機会だと思う。
京都でも有名な豪商のやんちゃ娘が嫁ぎ先の経営危機を救い、
「大阪に浅子あり」と全国にまでその名を轟かせたのだから
物語の題材としては最高の作品でしょう。
9月から始まる朝ドラ「あさが来た」では
実在人物の名前を変えてフィクションとして描かれますので
多少史実とは異なりますが、面白そうな内容で楽しみですね。